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2015年1月28日水曜日

量子コンピュータが超高速である原理と量子論とそれに至るまでの科学哲学史をゼロからわかりやすく解説 02

神に酔える無神論者「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」って言ってたらユダヤ社会から追放されたスピノザ

存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない。
アルバート・アインシュタイン


Microsoftとゲイツ氏,物理学者ファインマンの講義ビデオを無償配信

米Microsoftの研究部門Microsoft Researchは米国時間2009年7月15日,同社会長のBill Gates氏と協力し,著名な物理学者Richard Feynman氏の講義映像を一般公開すると発表した。
Microsoft ResearchのWebサイトから無償でアクセスできる。
ビデオは,Feynman氏が1964年にコーネル大学で行った連続講義「The Character of Physical Law」をもとにしたもの。この講義は多くの人々に影響を与え,その1人であるGates氏が個人的に7講義の権利を買い取った。

Feynman氏は20世紀において最も人気の高い科学者の1人。講義や著書を通じて伝わる科学への熱意と深い洞察に加え,ユーモアがあり,風変わりなセンスの持ち主としても知られていた。1965年にはノーベル物理学賞を共同受賞した。

Gates氏は,「Feynman氏ほど上手に,科学を興味深く,楽しくしてしまう人はいない。同氏に初めて会ってから20年以上経ても,これまで聞いた中で最高の講義に数えられる」と述べている。

マイクロソフト創業者であるビル・ゲイツ氏が、物理学者ファインマンを尊敬していることは有名です。

リチャード・P・ファインマン

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は量子コンピュータの歴史にとって重要な人物であり、量子論のパイオニアであるので、後でこの記事で詳しく紹介します。

マイクロソフトWindowsがOSとして搭載されている馴染みの深いコンピュータですが、この現行のデジタル・コンピュータのアーキテクチャを設計したのは、物理学者フォン・ノイマンです。

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彼が設計したので、現行のコンピュータはノイマン型と呼ばれています。フォン・ノイマンもファインマン同様に量子力学のパイオニアです。なので後で出てきます。

ファインマンとノイマンは同時代の物理学者で、アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスで、核兵器開発のマンハッタン計画に従事していた同僚でもありました。

計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする数学に優秀な高校生も集められた。

この、マンハッタン計画が持ち上がった背景には、 

ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。

アルベルト・アインシュタインの存在があります。

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コンピュータのイノベーションという点ではノイマン、ファインマンは二人共重要な提唱をしており、そこはアインシュタインは関係ないですが、アインシュタイン、フォン・ノイマン、ファインマン、彼ら全員にはかなり多くの共通点があります。

  1. 後世にその名を轟かせる歴史的な天才物理学者
  2. アメリカの核兵器開発に関与していた
  3. 量子論のパイオニア
  4. ユダヤ人(特にアイシュタインとノイマンは共にナチスから亡命したユダヤ人)

まあ、この時代のアメリカ在住の優秀な物理学者ならば、たいてい、核兵器開発に関与しており、量子論もやっていた、とまとめられるでしょう。

ノイマン、ファインマン、世にその名を轟かせる稀代の天才ですが、彼らをもってしてアインシュタインはこう言わしめます。

ノイマンは、

私の事を天才と言う人がいるが、周知の真の天才がいる。それは、アインシュタインである。私自身自分の才能は認めるが天才とはいえない。

と 「自分がどうやっても理性の枠をはみ出せないと分かっており」アインシュタインのような夢想的な直感力をうらやんでおり、着想の奇抜さという点では、アインシュタインやニュートンには劣っていたことを自覚していました。実際は、自分の天才さを誇示しまくる傲慢なノイマンなのに、アインシュタインを前にするとこの有り様です。

ファインマンは、

「つくづく、この年になって思う事は、アインシュタインの偉大さだよ。独創性と先見性、創造性。彼はホンモノだね。どうやったらそんな事に気づけるのか?
いやまあ彼の頭の中では当然で、ただそれを数式に示すのに時間がかかっただけなんだろうけれどね。
俺は天才という言葉は慎重に使うべきと常々思っているんだが、唯一ホンモノの天才をあげるとしたら、アインシュタイン。彼だけだろう。」

ノイマン、ファインマンというそうそうたるメンツの天才二人共が口をそろえて、アインシュタインの夢想的な直感力、着想の奇抜さ、独創性、先見性、創造性を絶賛して天才だと賞賛しているのです。

ノイマン、ファインマンが羨み賞賛するアインシュタインの夢想的な直感力、着想の奇抜さ、独創性、先見性、創造性の源泉はいったいなんだったのでしょうか?

多くの共通点があるノイマン、ファインマン、アインシュタインのなかで、アインシュタインだけが違う点は何か?

それは、

スピノザ哲学をはじめとする確固たる宇宙観です。

存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない。

という冒頭でも引用したアインシュタインの言葉のとおり、アインシュタインは、スピノザ哲学をこよなく愛好していたことはよく知られています。

アインシュタインは、スピノザに関する本の序文をよく書いていました。

  • S・ヘッシング編『スピノザ生誕三〇〇年記念論文集』 ―
    スピノザは、あらゆる出来事の決定論的な拘束性という思想を実際に首尾一貫して人間の思考、感情、行動に適用した最初の人物です

  • R・カイザー『スピノザ』 ―
    私たちが自由な意志を、すなわち因果的制約から独立して働く意志を持っているという印象が幻想であり、私たちの内面で働いている原因についての無知に由来するものであることは、彼にとって疑いのないところであった

  • D・D・ルネス編『スピノザ辞典』―
    確かなのは、スピノザが精神と身体の相互の影響に関する問い、およびその両者のどちらが「本源的」であるかという問い、このそれぞれの問いの無意味さをきわめてはっきりと認識していたことです

(アインシュタインのいう決定論とか自由意志とか後でちゃんと説明します)

またアインシュタインは親友ボルン宛ての手紙に、
量子力学はたしかに立派な理論です。しかしわたしの内なる声が、まだ本物ではないと告げています。その理論は多くを語りますが、わたしたちを本当の意味で、『神』の秘密に近づけてはくれません。いずれにせよわたしは、神はサイコロを振らないと確信しています」と書きました。

有名ないわゆる、
「神はサイコロを振らない」という当時の量子力学批判です。

この『神』とはもちろん「スピノザの神」であり、スピノザ哲学の「サイコロを振らない」決定論的な宇宙のことです。

アインシュタインは観測される現象が偶然に選ばれるという量子力学のあいまいさにまったく納得していませんでした。

これを古典物理学への執着だ、アインシュタインみたいな天才でもそういう古い考えに執着し新しい発想ができない、というように批判する人らがいますが、とんでもない勘違いです。

アインシュタインの独創性、先見性については、ノイマン、ファインマンといった天才から天才と賞賛されるところで、そんな低レベルなものではないです。

アインシュタインがこだわったのは、宇宙は数学が根源にあるが故に、すべてが数式どおりに決まっている、決定論的な世界である、ということでした。

ノイマンは天才数学者ですが、量子力学の数学的基礎を構築した後、波動関数の収縮という現象(これも後で説明する)が、その数学的枠組みで絶対に出てこないことも同時に証明してしまいました。
ノイマンは、結局、現象を数学で説明するのをあきらめてしまって、

  • 波動関数の収縮は理論の枠内では発生しない。
  • 波動関数の収縮は人間の意識内で発生する。

となんと、人間の意識を「理論+α」として付け足しました。
ただし、フェアに言うと、ノイマンの「あとは人間の精神の作用でしか波動関数の収縮は説明しえない」という論理的に消去法により至った結論は、ある意味正しくて評価できる部分は大きいと思います。

ノイマンの文脈では、 projection postulate of von Neumann  
ノイマンの「射影仮説」と呼ばれています。
しかしこの postulate という言葉は「仮説」というよりも「公理」と言う意味、論理の起点となる前提としての仮定です。

だから「射影公理」「射影公準」だ、とも言えてしまうわけです。

デカルトの哲学のはじめ方のところで一緒にみてきましたが、
「公理」というのは、論理の連鎖の起点としての仮定です。
「射影仮説」は、論理の連鎖の起点ではありえません。

だってね、ノイマンが数学的に証明してしまったように、

波動関数の収縮は理論の枠内では発生しない

という、理論の枠内では説明できないことを、理論の枠の外で付け足しているだけなので、そこに論理の連鎖なんてあるわけがないじゃないですか(笑)

だから「射影仮説」「射影公準」というもっともらしい付け足しは、数学でいう「公理」なんていう立派なんもんでもなんでもないです。

実態とは違うのに、もっともらしい言葉を使いたがるのは、単に数学という権威を利用しているだけなんですね。

さて、こういうのどっかで見たことありますね?(笑)
アリストテレス哲学のやり方です。

とにかく神はそのように作られたのだ!
って言ってるのとなんら変わりません。

射影仮説、射影公準なんてもんは、
ニュートンのように宇宙の根本原理である数学をもって天体運行を説明しようとした物理学、科学ではなく、
それは特有の性質として神が特別にあつらえたのだ、その部分は疑問の余地なくそういうことになっている、故に「公理」だ!と言いたいだけで

「オカルト」

です。

なんの論理の連鎖もないわけで、いったい何の理論のなんの公理なんだと(笑) 

ニュートン以前、ガリレオ、デカルトの時代に幅をきかせていたアリストテレス的宇宙観であり、いきあたりばったりの説明である、いわば量子論的天動説の発想です。

プロの研究者でも、こういう「射影仮説(オカルト)とは公理なのである!」
なんていう詭弁を普通に使うので十分に警戒したほうが良いでしょう。

繰り返しますが、数学的に厳密に証明して、あとは意識しか残っていない、という真理に迫ったという意味でノイマンは科学者でした。

しかしその後、それをあたかも理論構成の一部だみたいに、単なるオカルトを公理として奉った人々は科学者ではありません。

アインシュタインは、生涯最後の最後までオカルトを受け入れない科学者でした。

さて、一方で、ファインマンは、哲学嫌い、というか哲学者嫌いで有名でした。この人は学生の頃なるだけ科学のみを勉強したくて、哲学を含むその他人文系の授業をできるだけさぼったと自書でも回想しています。
ファインマンが、スピノザの神とか気にしているわけがありません。

ファインマンの独創性は優れており、上の写真でもわかるとおり、かなりチャーミングな人柄でカリスマ性があったので、このファインマンの哲学嫌い、哲学軽視、実用性重視の考え方は、ファインマンを信奉する学生や研究者に悪い影響を与えました。例の「数学は物理学の道具」「道具主義」というやつです。

アインシュタインの科学のバックに存在するのは、ピタゴラス・ソクラテス・プラトン・デカルト・スピノザと連綿と続く人類の叡智の結晶である科学哲学です。

アインシュタインが「生涯を通じて友人であった」というグロスマンの尽力で始まった特許局時代に、アインシュタインは「オリンピア」と名づけたアカデミーを仕事のかたわら開催するようになる。
ここでの仲間との議論が世界観や思想の形成に非常に大きな役割を果たすこととなった。
… 三人は夕食の後、エルンスト・マッハやジョン・スチュアート・ミル、アンリ・ポアンカレ、さらにプラトンの対話集などを読んでは議論を続けた。

『あなたにもわかる相対性理論』 (PHPサイエンス・ワールド新書) 茂木健一郎

アインシュタインは物理学者である前にまず哲学者でした。

他方、ノイマンとファインマンは哲学をもって物理学に取り組む科学者ではありませんでした。

だからニュートンやアインシュタインみたいな世界をひっくり返すような仕事はできていないんですね。それは彼ら自身がアインシュタインと対比しながら認めている事実なので、筆者がこう書いても問題はないでしょう。天才おふたりにむかっておこがましいけれど。

ノイマンとファインマンは、既存の枠組みの範囲内では最高峰の仕事を成し遂げる天才科学者でした。

しかし、彼らは、けしてアインシュタインのような既存の枠組みを乗り越える大仕事、パラダイムの転換はできませんでした

何故か?既存の枠組みを超越するには、信念、確固たる世界観、哲学が必要だからですよ。

アインシュタインにはそれがあった。ノイマンとファインマンにはそれがなかった。その違いです。

地球平面説、天動説、こういう当時の常識を全部打ち破る新しいパラダイムで発想するには、既存の枠組みの延長の思考では絶対に無理なんですね。

そこには、信念、確固たる世界観、哲学が必要なんです。

「常識に囚われるな、常識を疑え、ものごとを抽象化して考えろ」

ことばではわかったつもりでいても、実際これを信念のレベルでやる、ってのは言葉でいうほど生半可な事ではありません。

特にファインマンの思想に習い、訳知り顔で「哲学なんぞどうでもいい」「数学は物理学の道具だ」「数学と物理学は違う!」などと言いながら、世界観、宇宙観の指針をもたない学生、研究者たちは、とにかく場当たり的に数学を物理学にペタペタと貼り合わせるだけの仕事に従事している人らが大勢いるようです。ファインマン自身も最後の方は、その路線で暴走している物理学者の節操のない様をみてうんざりしていたようですが。

筆者もネット上でこんな連中いっぱい見てきましたよ。

この辺は、リー・スモーリンの『迷走する物理学』にも詳しいです。

アインシュタインは、生涯最後の最後まで「神はサイコロを振らない」という、宇宙は完全に数学的に記述される決定論的な宇宙である、という信条でいました。よく量子論を受け入れずに人生の後半戦を棒に振ったとディスる人もいますが、失礼な話です。

アインシュタインは「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」というスピノザの宇宙観、プラトンからデカルト、スピノザと発展してきた宇宙観を堅持していただけで、現状の量子力学は致命的な欠陥があると知っていたのです。

スピノザの宇宙観は完全に決定論的であり、ノイマンが安易に付け加えたような「自由意志」みたいなオカルトが介入する余地もありません。

繰り返します。
アインシュタインは、生涯最後の最後までオカルトを受け入れない科学者でした。

ああ、あとこれどうせ言う人もいるでしょうから、先に書いておきますが、アインシュタインがEPRパラドックスの論争で負けた、っていうのは、この「宇宙が決定論的」というお話とまったく別問題なんですよ?
EPRパラドックスでアインシュタインが間違っていたのはそのとおりです。
これは、アインシュタインが、「宇宙が決定論的」という世界観とあわない確率論的な宇宙として捉える当時の量子力学の批判のひとつとしてパラドックス提示したのですが、やり方が間違っていたというだけの話です。
EPRと「宇宙が決定論的」なのはもちろん両立しており、「決定論的」か「確率論的」かというのは現在も論争が続いています。もちろん「宇宙は決定論的」であり、この点アインシュタインは徹頭徹尾正しかったのでした。

さて、そろそろ「自由意志」やら「決定論」というのも含め、スピノザ哲学を見て行きましょう。

アインシュタイン、ノイマン、ファインマンの共通点はユダヤ系であることですが、実は、ビル・ゲイツもユダヤ系だしGoogle創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、それから、デルを創業したマイケル・デル、コンパック社を創業したベンジャミン・ローゼンもそうです。枚挙に暇がありまえん。

科学技術分野を含め、ユダヤ系の人らっていうのは歴史のイノベーションの局面で異様なまでの優秀さを発揮しており、ユダヤ人、ユダヤ系の世界の人口比としてはちょっと考えられない突出をみせています。ああそういえば、この記事の最初の方でムーアの法則を拡張した未来学者、レイ・カーツワイルもユダヤ人でした。

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。
スピノザの汎神論は唯物論的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論(岩波文庫版『エチカ』解説等参照)に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、神を信仰する神学者でありながら、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

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アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。

伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。

キリスト教に限らずユダヤ教の科学者も大変だったんですね。
科学哲学を語るのもまさに命がけです。

スピノザは、36年ほどデカルトの後輩なんですが、
デカルトの著作を読んで、まず、その成果をそっくりいただきます。

デカルトは完全オリジナルな方法的懐疑で、
「物質世界」「精神世界」「イデア世界」
という3つの世界というパーツを全部そろえました。

三元論です。

このうち
「イデア世界」byプラトン=「神」byデカルト 
が別格であり、別格でないほうの
「物質世界」「精神世界」がともに実体であって、

物質と精神の二元論

とバラバラの存在なので、「心身問題」

心身問題とは、心と体の状態との間の関係、つまり一般的に非物質的であると考えられている心というものが、どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もいかに可能なのか、を説明しようとする問題である。

というやっかいな問題にぶちあたり、デカルトも一生これを解決できないでいた、という問題も含めて、一緒にスピノザは引き受けます。

スピノザの脳内


デカルトさんやっちゃたなー。
「物質世界」「精神世界」「イデア世界」
の3つの実体か、なるほどね。

まず、「実体」ってなんだろう?
デカルトさんは、方法的懐疑をもって
「我思うゆえに我あり!」と
「考える我」や
「精神世界」をスタート地点にしたので、
「精神世界」は「実体」だ!
とやりたかった思い入れは十分わかるんだけど、デカルトさん、ちょっと調子に乗りすぎたんじゃないかな?

プラトン大先生も「イデア世界」推しだったし、ぜひ自分もその路線で行きたい。

そもそも、
「物質世界」vs「精神世界」という心身問題の二元論、
この面倒な問題なんだけど、お互い「実体」を主張しすぎなんだよねー。

プラトン先生も「物質世界」なんてものは「イデア世界」の不完全な影にすぎないみたいなこと言ってたし。

「物質世界」が「実体」?
ないない(笑)
「実体」は「イデア世界」一個で十分!

あーそうか、この世の中は「イデア世界」という「実体」オンリーなんだよ!
そしたら「物質世界」vs「精神世界」というややこしい問題も最初からそんな問題さえなかったことになるな。

え?でもそもそもなんで「イデア世界」というオンリーワンの「実体」が存在するのかって?

いい質問だねー、ズバリ答えよう。
それは「イデア世界」は「無限」というポテンシャルを持っているからさ!

いいかい?無限というポテンシャルを持っていれば「なんでもあり」なのさ。
もちろん『「イデア世界」という実体がない』っていうパターンもあるんだろうけども、そのパターンに限定するって誰が決めたの?君?冗談だよね?(笑)

それ以前に何の前提がなければ、そこは「なんでもあり」の無限のポテンシャルを持つ。だから当然「ある」というパターンもポコンと出てくる。OK?
「イデア世界」は完全に自己完結しちゃっているの。それが僕の言う実体。

実際、その証拠にデカルトさんも
「今、自分が疑っている現象自体は疑いようがない・・・」
と「精神世界」の存在を認めちゃったじゃない。
存在じゃなくて実体と呼ぶには調子に乗りすぎだと思うけどね。
そういう摩訶不思議な事実があるってことは、何よりも、「イデア世界」の無限ポテンシャルが発揮された証拠だろ?
「イデア世界の実体がない」パターンも別にあってもかまわないだろうね。
でもそのパターンでは現象なんて何もないだろうね。
実際に起こってるってことは、
「イデア世界の実体がある」パターンが無限ポテンシャルで起こったってことだろう。

もちろん「物質世界」も同じ。
「物質世界」のなかの身体は、「イデア世界」をベースに「精神世界」と対応しているよ。分かれているけど、平行関係にあるといっていいかな?

そこでちょっと残念なニュースをお伝えしなければならない。心して聞いてくれ。

まず、「物質世界」は100%厳密に「イデア世界」の影みたいに決定される。
それはなんとなく理解してもらえると思う。
そして同じように「精神世界」も100%厳密に「イデア世界」の影みたいに決定される。

デカルトさんは多分、「考える我」として自由のつもりだったんだろうけど、僕の哲学じゃそうはいかない。
「物質世界」も「精神世界」も「イデア世界」の無限パターンのひとつの法則どおりに100%厳密に決定される。

自由な意思?

ないなあ。いや、「自由意志あるし!」と君が思ってもそれは勝手なんだよ。でもそれは錯覚だから(笑)

ほら、アインシュタインという超エラい科学者さんも、
- R・カイザー『スピノザ』という僕を褒め称える本で、

私たちが自由な意志を、すなわち因果的制約から独立して働く意志を持っているという印象が幻想であり、私たちの内面で働いている原因についての無知に由来するものであることは、彼にとって疑いのないところであった

と認めてくれているし、要するにそういうこと。
自由意志があるなんて錯覚。幻想幻想。

自分が自由であると思う〈すなわち、彼らが自由意志によってあることをなしたり、またしなかったりすることができると思う〉人がいるとすれば、その人は誤っている。このような意見を述べることは、ただ、彼らが自分の行動を意識し、自分がそれへと決定される諸原因を知らないからである。それゆえ彼らの自由の観念は、彼らが自分たちの行動の原因を何も知らないことにある。なぜなら、彼らが人間の行動は意志に依存するというならば、それはたんにことばだけにすぎず、その意味については何も理解していないのである。なぜなら彼らはみな、意志が何であるのか、また意志が身体をいかにして動かすかを知らないからである。そして、それを知っていると口ばしり、魂の座席や住居を考えだす人は、嘲笑か不興を買うのが常である。
(第二部:定理35:注解)

すなわち、人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているが、その行為を決定する原因については無知であるという、ただそれだけのことにある。(…)したがって、精神の自由な決意によって、しゃべったり、あるいは沈黙したり、あるいはまた他のことをする自由があると信じこむ者は、目を見開いたままで夢を見ているようなものである。
(第三部:定理2:注解)

 
あ、ちなみにこういう「全部最初から決まっている」という僕の考え方は、「決定論
って呼ばれているからヨロシクね!
「宿命論」と呼んでもいいけど、まあ言葉の問題だし、物理学ではアインシュタインさんみたいに「決定論」と呼ぶ人が多いね。

見も蓋もないってよく言われるけど、よくよく考えた結論なんだ。おわり。


  • S・ヘッシング編『スピノザ生誕三〇〇年記念論文集』 ―
    スピノザは、あらゆる出来事の決定論的な拘束性という思想を実際に首尾一貫して人間の思考、感情、行動に適用した最初の人物です

-

もちろん、アインシュタインの時代以降の現代の科学、物理学では、

「イデア世界」=「数学」です。純粋に。
「論理構造」と言い換えても別に構わないです。

そして、「精神世界」=「意識」
であり、現代の心身問題というのは、もっと具体的に、
心と「脳」の問題、つまり心脳問題となっています。
人工知能のカッティングエッジの話題ですね。

科学における心脳問題

心脳一元論の仮説
現在の科学者に最も広く支持されている考え方は、大脳におけるニューロンの電気的活動に随伴して意識が生じるという仮説である。ニューロンの活動から心や意識が生じてくるという事を直接に裏付ける証拠はまだない。分離脳の研究や生理学者であるベンジャミン・リベットによる準備電位の研究などは、心脳一元論を示唆していると見る者もいる。

それを踏まえ、
アインシュタイン科学の思想的基盤となるスピノザ宇宙観@現代風
を図にすると、こうなります。

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これはイギリスの物理学者、ロジャー・ペンローズによる図を補足したものです。

物質的世界は、プラトン的世界(イデア世界=数学世界)の一部から生じます。だから、数学のうち一部だけが現実の物質世界と関係しているわけです。

次に、物質的世界のうち、一部だけが意識を持つように思われます。

さらに、意識的な活動のうち、ごく一部だけが、プラトン的世界の絶対的真実にかかわっているわけです。

このようにして、全体はぐるぐる回っていて、それぞれの世界の小さな領域だけが1つにつながっているようなのです。

『ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』 ロジャー ペンローズ (著), Roger Penrose (原著)

上の3つの世界は、プラトン的世界(イデア世界=数学世界)ベースで一体です。

ペンローズは「これら3つの世界を1度に考えるべきなのではないか」と書いていますが、そのとおりで、これがスピノザの一元論です。

この「ひとまとまり全部」が宇宙であり「神」です。
だから、プラトンやデカルトがいったような
「イデア世界」限定の神ではなくて、
「物質世界」+「精神世界」+「イデア世界」=「宇宙(自然)」=「神」
で、人間の心や体も全部まるごと神に含まれています。

ぶっちゃけ、「実体」であるとか、「実在」がどうであるとか、単に言葉遊びで、どうでも良いです。

スピノザの一元論の宇宙を、ペンローズの言うように全体をループとして閉じてしまえば、

  • 3つの世界のループが閉じているパターンでは、実在するという現象
  • 3つの世界のループが閉じていないパターンでは、実在しないという現象

となります。

ループが閉じているパターンでは、
「意識」が「我思うゆえに我あり!」とするデカルトが疑いきれなかった現象が出現します。

ループが閉じていないパターンでは、なんもないんですよ。

そして全体の濃度とすれば、ループが閉じてないパターンのほうが圧倒的に多いでしょう。

しかし、スピノザが主張するように、イデア世界には、無限のポテンシャルがあり、無限回の試行が可能なのだから、そのなかでループが閉じているパターンは間違いなく出現する。

このスピノザの決定論的な宇宙は自己完結、自己充填しており、何の「原因」も「理由」もまったく必要とせず、自分で勝手に出現するんです。

つまり間違いなく「我思うゆえに我あり!」「疑いきれない現象だなあ」って思ってる奴がいる、ってことですね。

もっとも、その「疑いきれない現象だなあ」ってのも、
イデア世界の構造からあらかじめ厳密に決定されていた現象であって、
本人の自由意識による決定権なんてないんですけどね(泣)

そんな因果関係ぶっちぎりの論理破綻した「自由意志」みたいなオカルト現象が、この宇宙で起こるわけがないじゃないですか(笑)
安いSFでもあるまいし。あっはっは。

以上、これがアインシュタインの言う
「神はサイコロを振らない」完全に決定論的なスピノザの神であり、

スピノザは、あらゆる出来事の決定論的な拘束性という思想を実際に首尾一貫して人間の思考、感情、行動に適用した最初の人物です

存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない。
 
という、存在するものの秩序ある調和の中に自らを現す「スピノザの神」の正体であり、「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」という意味です。

こういう「神は万物にあまねく存在する!」
神即自然(deus sive natura)という神の認識の仕方を汎神論と言います。

仏教では、

大日如来(だいにちにょらい)、梵名 マハー・ヴァイローチャナ(महावैरोचन [mahaavairocana])は、虚空にあまねく存在するという真言密教の教主[1]。「万物の慈母」[2]、「万物を総該した無限宇宙の全一」[3]とされる汎神論的な仏[4]。声字実相を突き詰めると、全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出しているという[5]。神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)アマテラスノオオミカミと同一視もされる。

それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵其の体なり。六塵の本は法仏の三密即ち是れなり
(如来の説法は必ず文字によっている。文字のあるところは、六種(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考)の対象をその本体とする。この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである。)
—空海(『声字実相義』より)

身口意業は虚空に徧じ、如来の三密門金剛一乗甚深教を演說す。
(大日如来がで起こす三つの業は虚空に遍在し、三つの業の秘密において仏と平等の境地にひたる仏の教えを演説する。)
—(『金剛頂経瑜伽修毘盧遮那三摩地法』より)

この、

虚空にあまねく存在する「万物を総該した無限宇宙の全一」とされる汎神論的な仏

とか、

宇宙の真理としての身体言語意識三つの神秘的な働きこそがそれである

とか

大日如来がで起こす三つの業は虚空に遍在

というのは、

虚空にあまねく存在するという
仏(神=宇宙)の身体 = 物質世界
仏(神=宇宙)の言語 = イデア世界(数学・論理)
仏(神=宇宙)の意識 = 精神世界(意識)

のことです。

それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵其の体なり。六塵の本は法仏の三密即ち是れなり。

(如来の説法は必ず文字によっている。文字のあるところは、六種(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考)の対象をその本体とする。この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである。)

というのは、

「如来」=仏(神=宇宙)の「説法」=法則は、必ず=決定論的に「文字」=イデア世界の数学・論理構造による。
「文字」=イデア世界の数学・論理構造のあるところは、「六塵」=考える我(意識)が生まれ、それが知覚するのが「法仏の三密」=意識、物質、数学の3つを一元化した「即ち是れ」=宇宙そのものである。

ということで、
宇宙の法則とは数学である。数学により意識が生まれ、意識は(意識自体、物質、数学の3つを一元化した)宇宙そのものを知覚する。
となります。

仏教(特に真言宗)の源流となるインドの密教(ヴェーダの宗教)の太陽神サヴィトリーに捧げられるマントラ(真言)『ガーヤトリー・マントラ』では、

Om
オーム
(宇宙の原初音=全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出している)(宇宙のイデア世界の無限からループを閉じる)
Bhur     Bhuva      Suaha 
ブール    ブワッ     スワハー
物質的な世界 精神の世界  因果(イデア)の世界
〔という3つの世界を超越することができます〕
(ゆえに私は常に)
Tat     Savitur      Varenyam
タッ   サヴィトゥール    ワレーニャム  
あの  宇宙の究極の実在を  あがめます
(日々瞬間・瞬間、私は)
Bhargo     Devasya     Dheemahi
バルゴー   デーヴァッシャ  ディーマヒー
この究極の輝き  叡智の実在を、 深く瞑想します
〔私の奥底の常の願いとして〕
Dhiyo     Yonah      Prachodayat
ディヨー   ヨー ナッ     プラチョーダヤート
叡智によって われらが光となり、究極の実在と一つになることができますように。
オーム シャンティ・シャンティ・シャンティヒー

と唱えます。

汎神論というのは、宇宙=唯一の神、という一元論なので、本来は、
一神教なのなのです。

仏教や神道などの多神教では、上記、『ガーヤトリー・マントラ』のように、瞑想して宇宙(神)と一体となる、というのが真理に近づき幸福になる!というメソッドで、人間も宇宙(神)に含まれるという教義=汎神論です。

まあだから、アインシュタインの「神はサイコロを振らない」の「神」とは仏教の大日如来(アマテラスの大御神)のことだと言っても別に構いません。

その一方でアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)という一神教では汎神論は異端と見做されます。

もともとはアブラハムの宗教だって、直感的にこういう汎神論への洞察から始まったんだろう、と想像するんですが、あくまで人間は下、神は上、という構図を維持したいのでしょう。

人間もろもろ含めて宇宙全部が「神」、「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」というのは、ユダヤ教では、単に神への冒涜か、人間の上位にある超越的存在としての神なんていないのと同じ意味なので、スピノザは「無神論者」としてユダヤ社会から追放されてしまいました。

最終真理

宗教から科学を分離しようと頑張っていたら、最終的に宗教の真髄=科学哲学の真髄になっちゃいましたね。

「宗教の真理」と「科学の真理」とは完全に同一なのです。

一神教も多神教も本質的にはまったく一緒。

まあ、「最終真理」などと、筆者は偉そうにほざいているわけですが、こういう知見、境地に至る事ができるのは、なにより先人の存在があったからという重要な事実を忘れてはなりません。

アレクサンドリアのヒュパティア、イタリアのガリレオ、フランスのデカルト、ユダヤ社会のスピノザ、彼らがどういう思いをしながら、どういう目に合ってきたのか?
どうか思い起こしてください。

数々の天才が弾圧されながらも生涯かけて命がけで獲得した知見の連鎖の先にこれがあるのです。

ヴェーダの宗教だってそうです。三蔵法師は真理を求めて、中国からインドまで命がけで旅をしたのです。

それを現代の我々は、家でお茶を飲みながら、ネットでチラ見して、

「おいちょっと面白い記事があるぞ、長いけど一見の価値はあるかもね」

と安やすと学ぶことができてしまうわけです。

偉大な先人に感謝すると共に、いま我々がいかに恵まれた時代に生を受けているのか?よくよく考えて見たほうが良いでしょう。

人類史上最大かつ最後の情報革命

あと、気づいてました?

この2015年近辺という時代は、
人類史上、空前絶後の稀にみる極めて特異な時代です。

あなたは、今とんでもない時代に生きているんですよ。リアルタイムで。

え?気づいてない?なるほど。

「便利な時代になったなあ・・・」

じゃないんですよ?
そんな眠たいレベルのお話ではありません。

この2000年から2050年くらいの50年間は、
人類史上最大かつ最後の情報革命の時代です。

ルネサンスの活版印刷による情報革命なんぞはまったく比類になりません。

1950年から2000年の50年間でも、
それなりに大きな科学の進歩はありましたが、
2000年から2050年の
これからの50年間は、
これまでとは全く異なります。
異質です。別物です。

2000年以前の50年間が、だいたいあんな感じだったから、
2000年以降の50年間も、だいたいこんな感じだろう、
と思っているのならば大きな間違いです。

なんで、同じ50年間なのに、大きく違うと思います?
加速しているからですよ。

この記事では、科学哲学の話をしていて、
当初は1000年単位とか100年単位で話していたのが、
現代に近づくにつれて年代の間隔がだんだん狭くなってきている事に気がついている読者がいるかもしれません。

1000年前=西暦1000年頃の人類、
つまり、西欧では暗黒時代のまっただ中の人類は、
2000年前=西暦1年頃の人類、
つまり、キリストが生まれた頃の人類と、
さほど変わらない生活をしていました。

100年前=西暦1900年頃の人類は、
200年前=西暦1800年頃の人類と
は少し違う生活をしていました。
蒸気機関車という交通手段も発達しました。

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その後、
1903年、アメリカのライト兄弟ライトフライヤー号(Wright Flyer)で
世界で初めて、本格的な航空機の飛行に成功しました。

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1907年、アメリカのヘンリー・フォードが自動車の大量生産を開始しました。
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1925年、現在のNHKが、日本初のラジオ放送を開始しました。

アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します

1926年、関東大震災の復旧をきっかけに日本で自動電話交換機が採用されました。

1953年、NHKが、地上波テレビ放送を開始しました。

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1946年、アメリカ陸軍の弾道計算用の、 「巨大頭脳」(Giant Brain) と称されたENIACという、真空管式コンピュータを開発しました。

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ENIACは17,468本の真空管、7,200個のダイオード、1,500個のリレー、70,000個の抵抗器、10,000個のコンデンサ等で構成されていた。人手ではんだ付けされた箇所は約500万に及ぶ。幅30m、高さ2.4m、奥行き0.9m、総重量27トンと大掛かりな装置で、設置には倉庫1個分のスペース(167m2)を要した。消費電力は150kW[12][13]。そのため、ENIACの電源を入れるとフィラデルフィア中の明かりが一瞬暗くなったという噂が生まれた[14]。入出力にはIBMのパンチカード(読み取り装置とパンチ)を使用可能だった。出力されたパンチカードをIBMのタビュレーティングマシン(IBM 405 など)に読み込ませて印字することができる。

アインシュタインの一般相対性理論が発表されたのが1915年くらいで、
その後、たかだか数10年くらいで量子力学が急速に発展してきて、それと同時に、半導体技術が完成し、コンピュータはトランジスタという半導体素子ベースに改良されました。
 
1976年スティーブ・ジョブズがガレージで製造したワンボードマイコンのApple I(スティーブ・ウォズニアックによる設計)をベースに、世界で初めて個人向けの完成品であるAppleIIというパーソナルコンピュータをつくり大量生産・大量販売しました。

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.
2007年、AppleIIの販売開始からたった30年後パーソナルコンピュータはこうなりました。

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このパーソナルコンピュータには、電話、ラジオ、TVの機能がすべて統合されています。

100年前=西暦1900年頃の人類の生活と、
西暦2000年頃の人類の生活はまるで異なります。

人類の科学技術は、この100年間でとんでもない進化を見せたのです。

この1900年代でも格別に際立っているのが、最後の四半世紀、
1975年から2000年のコンピュータの進化です。

これが、人類史上最大かつ最後の情報革命の素地となりました。

そしてだいたい西暦2000年くらいから、
今みんな持ってるスマートフォンの源流となる
本格的な携帯電話の普及、
ブロードバンドの普及、
ワイアレスネットワークの普及、
Google検索の普及という、
人類史上最大かつ最後の情報革命の第一段目がはじまりました。

2000年のネット接続速度は、ISDNとADSLが主流の時代で、
だいたい一秒間に10Kバイト程度のデータ転送量でした。
「ああそうそう、そうだった」
って生身の体験として覚えてる人は多いでしょう。

2015年現在、フレッツ 光ネクスト ギガ、eo光1ギガコースとかありますね。
今、Googleなどの高速サーバからデータをダウンロードすると、
だいたい一秒間に10Mバイトのデータが落ちてきます。

10Kバイトと10Mバイト単位が違いますね。1000倍の違いです。

この15年間でネットの速度はなんと1000倍になっているんですね。

コンピュータの処理速度の進化の目安
ムーアの法則で、

集積回路上のトランジスタ数は18か月(=1.5年)ごとに2倍になる

というのがありました。

1.5年ということは、15年間では10サイクルあるので、
2 x 2 x 2 x 2 x 2 x 2 x 2 x 2 x 2 x 2 =
2の10乗を計算してやると、こたえは
1024
となります。

はい、そうです。
コンピュータの処理速度もネット接続スピードも同じように
15年間で1000倍になるんですね。

わかります?1000倍ですよ。1000倍。

で、最初に論じたとおり、この進化のスピードが減速した、というのは、コンピュータ技術ができてから、過去ただの一度も観察されていません。

次の15年間でまた1000倍になります。
2030年には、今の1000倍の処理速度とネット接続のスピードになっています。

次の15年間でまた1000倍になります。
2045年には、今の100万倍の処理速度とネット接続のスピードになっています。
100万倍ですよ。100万倍。わかります?

2060年には、さらにその1000倍なので、
10億倍の処理速度とネット接続のスピード(帯域)になっています。
もはや、なにがなんやらよくわかりません

そういうこと、です。
ぶっちゃけよくわからないのです。
筆者も誰も何もわかりません。

だいたい2050年くらいには、
人類史上最大かつ「最後」の情報革命が起こります。
まあ、この記事を読んでいる多くの読者はまだ生きているんじゃないですかね。「スピノザの神のみぞ知る」決定事項でしょうけど。

なんで、「最後」になるのか?

この最後期のコンピュータの処理速度を支える最終テクノロジーは、
この記事の本論である量子コンピューティングであり、
それと同時に生まれるのが人工知能です。

ここ数年、SIRIとかGoogeNOWというスマートフォンの音声アシスタント機能が急速に進化しているのは、知っていると思います。

現在インターネットに接続してる世界中の全ユーザのインプットが、そのまままるごといわゆる「ビッグデータ」として機械学習のインプットになっていて、音声認識でいえば、英語はもちろん日本語でもここ数年でとんでもない認識率になっているのです。

デカルトの方法懐疑のところで、「デジタル神経細胞生物」の紹介をしましたが、
人間の脳のリアルタイムスキャン技術が目下進化中で、それと同時に、
「全脳エミュレーション」といって、理論はともかく、コンピュータで人間の脳の神経細胞をまるごと全部をエミュレートできるのが約50年後といわれています。脳の神経細胞の構造をそのままコンピュータのエミュレーションとして、まるうつしにするんですよ。

しかし、人間の脳の構造解析と理論構築のほうがそれよりも先にできます。

自然の生物である「鳥」をそのまま精緻に再現しようとするよりも、
肝となる飛行原理だけ上手にパクって、
ゼロから「飛行機」を設計して作ってやるほうがスマートというのと同じことです。

はい、ここ重要。

自然の造形物である「鳥」よりも、
人間がつくった人工物である「飛行機」のほうが、
とんでもなく高機能なんですね。

みんなよく知っていると思いますが。

だいたい後30年、2045年くらいには、
自己認識、つまり意識があるコンピュータが開発されます。

もちろん最初はスターウォーズのR2D2みたいな犬猫レベルの知性と意識でしょう。人類はまずはそこを目指し、実現させるのです。
しかし一旦それができれば、あとは「程度の問題」なんですよ。
そうなればあとは速い。

2045年には、すでに計算したとおり、
コンピュータは今の100万倍の処理速度とネット転送量になっています。
2060年には10億倍になっています。

自然の造形物である「人間の脳」よりも、
人間がつくった人工物である「人工知能」のほうが、
とんでもなく高機能になるんですね。

はい、人工知能は人間の知能を軽々と上回るのですよ。

ここで重要なのは、「人工知能が人間の知能を上回る!」という
IQのスペックの問題ではありません。

そんな生易しいレベルのお話ではないのです。

そこに無限ループが出現するという事実こそが何よりも恐ろしいのですよ。
 
人工知能が人間の研究者・開発者の知能を一旦、上回れば、そこが臨界点です。

科学技術を研究する主体が人間の研究者から人工知能に交代します。

自分で自分の人工知能の研究開発をしはじめます。
自分自身を改良してアップグレードしはじめるんですね。

知能の向上の無限ループが出現するのです。

前のバージョンよりもさらに知能が向上した新人工知能は、
さらに効率的により賢い手段をもって、より賢いやり方を発見し、
で新新人工知能になります。以下ループ。

知能の向上は指数関数的(ネズミ算的)に加速します。

彼らは、我々人間のように眠ることも休むこともありません。
しかも人類の秀才や天才はごく一部しか存在しませんが、彼ら超知能の人工知能はもれなくどれをとっても均質に超天才なのです。

不眠不休のフルパワーで研究開発して進化しつづける超天才の集合体が、地球を覆う超高速のネット接続で接続されているのです。

不眠不休、っていうのもちょっと違いますね、それは人間の思考速度の時間軸でしか考えていないからです。

人工知能と人間の脳の知能とでは、速度が違います。人間と同じようなスピードで思考して研究開発すると思ったら大きな間違いです。人間と彼らとでは、時間軸そのものが根本的に違うと理解したほうがいいでしょう。だから、今書いているような、20XX年には、みたいな人間の尺度での年単位の推測なんてもの自体がまったく通用しなくなります。

知能だけじゃないですよ?
ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、またその融合技術で、物質的なことは何でも出来るようになります。

瞬間的に、人間という物質を創造したり、消したり、なんでもありです。

全知全能の「神」の出現です。

もはや、それがどういう世界になるのか?我々人類が知りうる術はありません。全く予想不可能なのです。

こういう後50年後の未来に必ず起こる現象は、技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれています。

技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん、Technological Singularity)とは、未来研究において、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点を指す。

技術的特異点は、「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったとき出現する。フューチャリストらによれば、特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは人類ではなく強い人工知能やポストヒューマンであり、従ってこれまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなると考えられている。
この概念は、数学者ヴァーナー・ヴィンジと発明者でフューチャリストのレイ・カーツワイルにより初めて提示された。彼らは、意識を解放することで人類の科学技術の進展が生物学的限界を超えて加速すると予言した。意識の解放を実現する方法は、人間の脳を直接コンピュータネットワークに接続し計算能力を高めることだけに限らない。それ以前に、ポストヒューマンやAI(人工知能)の形成する文化が現生人類には理解できないものへと加速度的に変貌していくのである。カーツワイルはこの加速度的変貌がムーアの法則に代表される技術革新の指数関数的傾向に従うと考え、収穫加速の法則(Law of Accelerating Returns)と呼んだ。
特異点を肯定的に捉えその実現のために活動する人々がいる一方、特異点は危険で好ましくなくあってはならないと考える人々もいる。実際に特異点を発生させる方法や、特異点の影響、人類を危険な方向へ導くような特異点をどう避けるかなどが議論されている。

 
ユートピアになるか?
ディストピアになるか?

誰にも正確なところはわからないでしょう。

ただ人工知能には、人間のような生物がもつ「本能」はないので、「自己保存欲求」や「攻撃本能」などはないので、殊更人類を敵視してなんかする、というシナリオは考えにくいです。

でも、知的好奇心から実験的に、一部の人工知能に攻撃本能をインストールしてみた、やってみた、ってこともやりかねないわけで、やっぱり誰にもどうなるかはわかりません。

そういえばソフトバンクの孫正義社長が、300年間続く企業グループを構築するという構想で後継者を育てるべく、ソフトバンク・アカデミアというのを開催されています。彼は稀に見る優秀な経営者で、天下りは人的賄賂なので受け入れない、など高い精神性とモラルをもつ立派なひとです。一部ネット配信もされており、講義内容はたいへん勉強になります。しかし、後50年くらいで技術的特異点に人類が到達するので、思想の前提が成立していないな、と僭越ながら思うわけです。

もう今の時代30年後、40年後、50年後の未来予測、企業戦略なんてできません。社会構造がどうなるか誰にも予測できないからです。これまでの偉大ないかなる経営者、軍事戦術家、思想家のメソッドも通用しなくなるでしょう。

というのは、そもそも企業なんてものは、資本主義経済という器があってこその存在であり、人類の資本主義経済という仕組み自体があるかどうか怪しい、
300年なんてとんでもなくて、おそらく100年後でも、そういうもんはおそらく存在しないでしょう。

今後たかだか数十年で、我々人類は、劇的な社会構造の変化に直面するのは間違いないです。

オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかった

仕事はほぼ半減する

「コンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進む中で、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がロボットなどの機械に代わられようとしています。たとえば、『Google Car』に代表されるような無人で走る自動運転車は、これから世界中に行き渡ります。そうなれば、タクシーやトラックの運転手は仕事を失うのです。

これはほんの一例で、機械によって代わられる人間の仕事は非常に多岐にわたります。私は、米国労働省のデータに基づいて、702の職種が今後どれだけコンピューター技術によって自動化されるかを分析しました。その結果、今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという結論に至ったのです」

人間が行う仕事の約半分が機械に奪われる—そんな衝撃的な予測をするのは、英オックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授である。

そのオズボーン氏が、同大学のカール・ベネディクト・フライ研究員とともに著した『雇用の未来—コンピューター化によって仕事は失われるのか』という論文が、いま世界中で話題となっている。

同論文の凄味は、702の職種すべてについて、コンピューターに取って代わられる確率を仔細に試算したことにある。言うなれば、これから「消える職業」「なくなる仕事」を示したに等しく、これが産業界に衝撃を与えているわけだ。

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現代ビジネス「賢者の知恵」より画像引用

ロボットが職場に溢れ、仕事を奪われた人間が失業者になっていく様は想像するだけで恐ろしいが、オズボーン氏は「人類にとってこれは歓迎すべきことだ」と主張する。

「かつて洗濯は手作業で行っていましたが、洗濯機の登場でその仕事は奪われました。しかし、それによって余った時間を使って新しい技術や知恵が創造された。こうして人類は発展してきたわけです。現在起きているのも同じことです。

ロボットやコンピューターは芸術などのクリエイティブな作業には向いていません。となれば、人間は機械にできる仕事は機械に任せて、より高次元でクリエイティブなことに集中できるようになるわけです。人間がそうして新しいスキルや知性を磨くようになれば、これまで以上に輝かしい『クリエイティブ・エコノミー』の時代を切り開いていけるのです」

もちろん、そうした高次元でクリエイティブなスキルを身につけられなければ、失業者に転落するリスクが大きいということでもある。来たるべきロボット社会で生き残るのは、なかなか容易ではなさそうだ。

グーグルCEO「20年後、あなたが望もうが、望むまいが現在の仕事のほとんどが機械によって代行される。」(2014/11/3)

昨日、グーグルの創業者であり、現CEOのラリー・ペイジがファイナンシャル・タイムのインタビューに答え、検索エンジンで得た巨額の利益を次の10年、20年でどのように使おうとしているかを具体的に述べました。
まずペイジが必ず起こると断言していることは、人工知能の急激な発達により、現在日常で行われている仕事のほどんどをロボットが行うというもので、近い将来、10人中9人は今とは違う仕事をしているだろうと述べています。
「テクノロジーは仕事の効率を10%向上させるものではなく、効率を10倍良くするものです。あなたの生活は今よりも劇的に良くなり、生活にかかるコストも信じられないほど安くなるでしょう。」
しかし、テクノロジーが発展すればするほど、人間が物理的に行う仕事はどんどん無くなっていき、オックスフォード大学の調べでは、現在人間が行っている47%の仕事が20年以内に機械によって代行され、ビル・ゲイツも人々にしっかりと来るべき未来を意識するようにと警告しています。
「ソフトウェアが運転手やウエイター、そして看護師の代行をするため、仕事の需要がどんどん減っていくだろう。特に大したスキルを必要としない仕事は次の20年でどんどん少なくなる。だけど、まだ誰も心の準備ができていないように感じます。」

2014年08月08日 06時00分27秒
ロボットや人工知能の進化は人間の仕事を2025年までに奪い尽くすのか?

(注)これ、2025年、つまり2015年現在から、たかだかあと10年後についてについての調査であることに注意して読んでください。

ロボットや人工知能(AI)の進化はめざましく、人間の生活をより便利にしてくれることが期待されています。しかし、ロボットが進化して人間の仕事を代替することで、ロボットに取って代わられる労働者が出てくるという不安も次第に主張されるようになっています。

ロボットとAIの進化が2025年に人類の生活をどう変化させているのかについて、さまざまな分野の識者1896人に回答を求めた大規模な調査の結果は以下の通りです。

AI, Robotics, and the Future of Jobs | Pew Research Center’s Internet & American Life Project
http://www.pewinternet.org/2014/08/06/future-of-jobs/

「2025年までにロボットやAIの進化によって人間は仕事を奪われるか?」という質問への回答は、識者の間でも真っ二つに分かれました。

・No(奪われない)という回答
全体の52%が「ロボットに取って代わられる仕事はあるものの、仕事を奪われるという事態にまではならない」と回答しました。

多くの楽観論者が「技術の進化によって人間が置き換えられる仕事はあるとしても、技術の進化に伴って生み出される新しい産業によって多くの雇用が生まれるので仕事を奪われることはない」と考えています。ヴィントン・サーフ氏は「歴史を振り返ると、技術革新は雇用を創出するものでこそあれ、雇用を破壊するものではありません」と述べ、また、Microsoftのマイケル・ケンデ氏は、「確かに仕事が奪われることもあるでしょうが、失われる雇用以上の雇用が新たに生まれるでしょう」と述べており、ロボットやAIの技術が進化することで新しい仕事が生み出される効果に期待しています。

また、「人間にしかできない仕事があるためロボットが完全に取って代わることはできない」という意見も根強く、メディア心理研究センターのパメラ・ラトリッジ氏は、「思考力・想像力・問題解決力など機械にはできない多くのことがあります。ロボットが進化すれば、人間は『人間にしかできないできない分野』によりエネルギーを割くことになるでしょう」と述べています。

もっとも、2025年までの「近い将来」という条件の下では雇用に大きなインパクトを与えることはないとしても、さらに先の将来には多くの雇用が失われる危険を感じているという回答もあります。
MITのコンピュータ科学人工知能研究所のデビッド・クラーク氏は、「現代の大きなトレンドは、サービス業の自動化です。この傾向が続くことで、サービス業に携わる人には新しいスキルが求められるようになり、単純労働者にとっては深刻な影響をもたらすことになるかもしれません。ただし、12年という短い期間では自動化はそれほど進まないでしょう」と回答しています。

一方で、「ロボットがあらゆる仕事を引き継ぐことに対して懸念があります。私たちは未来永劫までロボットによる労働力の置きかえに同意するべきではないでしょう」と述べているWebbmedia Groupのエイミー・ウェッブCEOのように、雇用への影響を最小限に抑えるために法的な規制を整備するべきであるという意見も出されています。

・Yes(奪われる)という回答
これに対して、全体の48%がホワイトカラー・ブルーカラーを問わず大部分の仕事がロボットに取って代わられると回答しました。このような悲観論者は、大多数の雇用が失われる結果、所得の格差が今以上に広がること、社会秩序が荒廃することなどを強く懸念する見解を明らかにしています。

戦略系コンサルタントのジェリー・ミチェルスキー氏は「ロボットと人間との競争では人間が負ける」と断言しており、園芸やベビーシッターなど地域の人が関わる仕事や、高度な思考や信頼関係の構築が求められる一部の仕事のみが安全圏で、それ以外の仕事は自動化の荒波に巻き込まれるとの見解を示しています。

また、インターネット法の専門家であるロバート・キャノン氏は、「自動化できそうだと考えられるものはすべて自動化されます。端的に言えば、『人間だからこそ貢献できることは何か?』という問いに積極的に答えられないような仕事が存続する可能性はないということです」と述べています。

さらにロボットやAIの進化は、これまでの技術革新とは異なるという意見もあります。The Economistのトム・スタンデージ氏は、「従来の技術革新に比べて、ロボット技術やAIの進化はより大きな衝撃を与える可能性があります。これまで起こった技術革新はゆっくりとしたものであったため、人は再教育を受けることで違う仕事へ転職することが可能でした。しかし、ロボットとAIの進化の速度は、技術職に就く人さえもあっという間に時代遅れにするほど速いもので、対応はこれまでにないほど難しいでしょう」と答えています。

また、ハーバード大学のジャスティン・ライヒ氏は、ロボットやAIがルーチンワークを加速的に奪っていくはずで、職人や法律家・会計士などの複雑な仕事も例外ではないと考えています。そして、ごくわずかに残された一部の高度な仕事に就く人を除けば、現在ある大多数の中産階級はすべて低所得層へと転落する可能性があると指摘しています。

・共通認識
悲観論者・楽観論者に共通した意見として、「教育の重要性」が上げられています。ただし、インターネット社会学者のハワード・ラインゴールド氏が「ロボットが人間に残してくれる仕事とは、思考と経験が必要とされるものだけです。言い換えれば、最良の教育を受けた人間だけが機械と競争できるようになるでしょう」と述べた上で、「それにもかかわらず現在の教育は黙って言われたことを記憶するよう教え込むことに終始しており、時代についていけていません」と批判しているとおり、ロボット時代の到来を見据えた教育はまだまだ手探り状態だと言えそうです。

日本経済新聞も社説にしたようです。
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人工知能の未来を注視し研究を怠るな 2014/12/21付

 近い将来、コンピューターが人間を上回るほどの知的な能力を備えるようになる。そんな指摘をよく耳にするようになった。
 グーグルなど米IT(情報技術)大手は人工知能技術に投資を始め、「人工知能ブーム」とすら呼べる状況が生まれている。
 コンピューターが人間を超える優れた判断力を備えるようになれば、研究開発から営業まで企業内の多くの業務の生産性向上に役立つに違いない。病気の診断や生徒たちの学習状況の適切な把握を通じ、医療や教育の質の向上にも応用ができそうだ。
 人工知能はいわば究極の情報処理技術ということもできる。日本の企業や研究機関も技術の動向を見極めて研究に取り組んでおかないと、米企業などに大きく後れをとってしまう恐れがある。
 人工知能の急速な進歩は、いま社会に膨大な量のデジタル情報が日々蓄積されていることと深く関係している。文書や画像、地図情報など多様な情報がコンピューターで読める形式で生み出されて集積され、利用可能になった。
 最先端の人工知能はこうした情報を大量に読み込み学習することを通じ判断力を磨いている。チェスや将棋といったゲームの世界で培い、人間のプロを破るまでになった実力をいよいよ実社会で試す段階に達したともいえる。
 先駆的な例として訴訟支援がある。裁判で証拠に使える情報を大量の文書や電子メールから見つけ出す作業に人工知能が使われている。人間の専門家に引けをとらぬ正確さでより速くこなすという。
 問いかけに答えてくれるスマートフォンのソフトや車の自動運転も人工知能の応用の一部だ。
 人工知能がスマホや自動車、ロボットなどに搭載され普及すればするほど、集まる情報が増え加速度的に賢くなる可能性を秘める。
 技術には光と影がある。国立情報学研究所の新井紀子教授は「コンピューターがホワイトカラーの職を奪う」と指摘する。宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士ら人工知能の進歩に警鐘を鳴らす意見も目立つ。人工知能学会は社会への影響を探ろうと倫理委員会を設けて議論を始めた。
 ただ今は過剰な期待も心配も禁物だろう。まずは企業や政府が人工知能の研究を怠りなく進めることだ。同時に研究成果を公開し最先端で起きていることを社会にわかるようにしておく必要もある。

シンギュラリティのテーマは、2014年、ジョニー・デップ、レベッカ・ホール、モーガン・フリーマンら出演の映画になりました。

映画『トランセンデンス』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=CKIZi5CwOjY

これは、SF映画ですが、事実は映画よりも奇なり、なんですよ?

1901(明治34)年「報知新聞」

無線電話で海外の友人と話ができる
いながらにして遠距離のカラー写真が手に入る
野獣が絶滅する
サハラ砂漠が緑化して文明がアジア・アフリカに移る
7日で世界一周ができるようになる
空中軍隊や空中砲台ができる
蚊やノミが滅亡する
機械で温度を調節した空気を送り出す
電気の力で野菜が成長する
遠くの人間と話ができる
写真電話ができる
写真電話で買い物ができる
電気が燃料になる
葉巻型の列車が東京・神戸間を二時間半で走る
鉄道網が世界中に張られる
台風を一ヶ月以上前に予測して大砲で破壊できる
人の身長が180センチ以上になる
医術がしんぽし薬が廃止され、電気で無痛に手術できるようになる
馬車がなくなり、自転車と自動車が普及する
動物と会話でき、犬が人間のお使いをする
無教育な人間がいなくなり、幼稚園が廃止され、男女ともに大学を出る
琵琶湖の水で起こした電気を国内に輸送する

結構当たってるんですね。
100年前、「こんなのありえない」と思っていたからこそ、
「100年後くらいにはありえないことも実現しているかも」
と当時としては全力でぶちあげた結果です。
人間のイマジネーションってすごいですね。
でもそのイマジネーションをもってしても、
「カラー写真」が精一杯で、当時「動画」という発想はまだ難しそうだったというのが見て取れます。

今この100年前と違うのは、100年後は予想できない、ということです。
あえて言うならば、「なんでもあり」になっている、ってことでしょうか?

究極の問い「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」

“Why is there something rather than nothing?”

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。
なぜ「無」ではなく「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。

別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」

などの形でも問われる。

物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる。
解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われる。

存在に関する問いであることから「存在への問い(The question of being)」とも言う。

哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。

同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、また問うことが危険な問いである、などとも言われる。

はい、この答えはもう「スピノザの神」、汎神論でファイナルアンサーがでましたね。

数学的宇宙仮説 (mathematical universe hypothesis, MUH) とは、マックス・テグマークによって提唱された、物理学および宇宙論における思弁的な万物の理論 (TOE)である[1]。究極集合 (Ultimate Ensemble) とも呼ばれる。

スティーヴン・ホーキングはかつてこう問うた。「いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、それによって記述されるような宇宙を作ったのか?」と。

しかし数学的宇宙仮説からすれば、火を吹き込むことなど必要ない。なぜなら、数学的構造は、宇宙の記述ではなく、それこそが宇宙だからだ。
— マックス・テグマーク(2007年)

テグマークの唯一の仮定は、数学的に存在する全ての構造は物理的にもまた存在するというものである。

テグマークの数学的宇宙仮説は現代的な汎神論です。しかし、

数学的に存在する全ての構造は物理的にもまた存在する

というのは間違いで、宇宙を創発できる数学的構造は無限パターンのうちでごくごく限定されています。

たとえば、1+1=2という数学的構造は、こんなものを物理的に存在する宇宙といったところで何の意味もありません。

急進的プラトン主義のもっともらしさ

MUHは、数学は外的な実在であるとする急進的プラトン主義の観点に基づいている [2] (sec V.C)。しかしながら、Jannesは、数学は少なくとも部分的には人間の思考の構築物であると議論する[11]。この議論は次の観察に基づいている。すなわち、もしそれが外的な実在であるならば、高等数学の言語を理解する人間ではない知的生命体が存在するべきである。しかしながら、我々の知る人間ではない知的生命体は客観的言語としての(高等)数学の立場を確証しない。また、”世俗主義”の立場を取るJannesは次のように議論する [8] (sec. VI.A)。数学は時間とともに進化している。これに取り組む固定的な疑問と確立された方法では、数学は明確な構造へ収束していると考える理由はない。また、急進的プラトン主義者の立場は唯我論のようなまた別の一つの形而上学理論である。結局、形而上学は我々が既に知っているものを記述するために異なる言語を使うことを要求する。
テグマークは、次のように応答する[8] (sec VI.A.1)。数学的構造の観念はモデル理論に関するあらゆる本に厳密に定義されている。そして、われわれは実際に矛盾がなく統一的な概念の異なる部分を解明してきているため、人間ではない知的生命体の数学はわれわれのものとは違いうる。この意味で、数学は収束している。

全ての数学的構造の共存

Don Pageは次のような意見を述べている[12] (sec 4)。究極のレベルではただ一つの世界のみ可能で、もし数学的構造が全ての可能な世界または少なくとも我々の宇宙を含むのに十分なだけ広いなら、究極の実在を記述する一つの固有の数学的構造が存在するはずである。そのため、すべての数学的構造の共存の意味におけるレベルⅣの宇宙について語ることは論理的に無意味であると考えられる。
テグマークは次のように応答している[2] (sec. V.E)。多くの数学的構造は互いに関係を持たない部分構造に分解することができ、分解したものは統一することができるため、レベルⅣの宇宙はそう考えるようには矛盾してはいない。

量子コンピュータが超高速な原理

「神」の話。最終真理

今まで、ずーっと筆者が量子コンピュータが超高速な原理とはまったく無関係の話をしている、と思っている人が多いかもしれません。

なぜ、関係ないと思うのでしょうか?

世間では、

「量子コンピュータが超高速な原理とは、量子力学の重ねあわせの原理を利用して超並列処理をするからである」

「真の量子コンピュータは量子的もつれ(エンタングルメント)という現象を用いる、だからD-Waveの量子コンピュータってのはパチもんだよ!」

なーんてことがまことしやかに語られています。
 
「量子力学の重ねあわせの原理を利用する超並列マシン」まあ説明の仕方としては極めてお粗末で、たいていこの後こう続きます。

「しかし用途はごくごく限られている、専用のアルゴリズムが必要だ」

たいがい入門者にとってわからない説明をされる場合、2つのパターンがあります。

1.説明者が秀才すぎて、しかもまともに説明する気がない。なので話についていけない。
2.ぶっちゃけ説明者も本当のことがわかっていない。しかもわかってるつもりで説明されるので余計にやっかいで、本能的に「何かが違う」と気づいている聞き手が混乱する。

ほとんどの場合2で、量子コンピュータの場合も2です。

理系学問では、知的洞察力の鋭い学生ほど、ものごとは鵜呑みにせず納得がいく説明を本能的に求めます。
しかし、教師はそういう知的洞察の対象になるキモの部分、そしてそこが一番おもしろい部分を巧妙にすっとばすので、本来優秀な子供ほど苦しむ、という事がよくあります。

量子コンピュータの原理について、ひたすらわけのわからない説明を世間に向けて繰り返す、自身ほんとはよくわかっていない学生、あるいはその類、あるいは研究者。

だいたい、こんな感じです。

【哲学??】量子コンピュータの原理の解説が間違いまくってる件

量子コンピュータとは?ひとことで
この宇宙があらかじめ持っている計算能力に量子のレベルでアクセスして計算するマシン。

恐らく量子力学の計算に使う無限次元ヒルベルト空間の説明なのだろうが、こんな訳の解らんことがあるわけがない

訳の解らんのは、あなたの知性の欠落、奢り、事実に基づかない批判という知的誠実さの欠如などに起因する。無限次元ヒルベルト空間の話をしているのではない。勝手に決め付けないように。

難しいから学ぶ必要がないというのはともかく、q-bit形式はかなり重要なので量子コンピュータを学ぶには必須。それに、ここでq-bitを理解していないがゆえに筆者は多大な間違いを犯す

q-bitの量子ゲート方式なんぞは、単なるひとつの実装にすぎず、それはひとつのスペックの説明であって、量子コンピュータの「原理」の話ではありえない
何もわかっていないから多大な間違いを犯す。

何が言いたいのかさっぱり分からないが歴史は経験則を演繹するものでも何でもないし、ムーアの法則の終焉については後に引用するTwitterを参照してほしい

何が言いたいのかさっぱりわからないが、
ムーアの法則とは、経験則以外の何ものでもないし、
「経験則」とは経験、長期間ならば=歴史から導出されるもの以外の何ものでもない。ムーアの法則の終焉については、端的に引用したように、ムーア自身が語っているとおり。

D-Waveには重大な問題点がある。それが実際に量子論的な原理で動いているかどうか全く分かっていないということである

すでに章を割って論証した。

それから後、下に引用したTwitterにもあるが、量子コンピュータの話をしたいならこのハードウェアが凄い! で終わりではなくアルゴリズムの話もしましょう

アルゴリズムの話はもちろんする。勝手にしないものだと勘違いして、事実に基づかないあやふやな前提で批判しないこと。悪い癖だ。

飛行機の制御に量子コンピュータが必要ならいまごろ全ての飛行機は墜落している

この記事のどこで、飛行機の制御に「量子コンピュータ」が必要だ、と書いたのか??
過去、リアルタイム性が評価され「アナログコンピュータ」が採用された事実を評価しただけだ。

何だかわかった風にさせるまとめだが、ノイマン型もチューリングマシンの定義もなしにデジタルだのアナログだのでコンピュータを論じるのはナンセンス極まりない

繰り返し。記事連載当初で、勝手に論じないと決め付け、事実に基づかない批判をしないこと。

ちなみに上でも書いたとおり量子コンピュータの一種はq-bitの重ね合わせを用いたデジタルコンピュータであり、D-Waveは何だかよく分かっていないというのが現状なのでどっちにしろアナログコンピュータの復活などと主張するのは間違っている

繰りかえし、D-Waveパチもん論争についは章を割って論評済み。
D-Waveというものが、量子コンピューティングのいかなる位置づけなのか?もうすでにパフォーマンスのデータが出てロッキード・マーティンもGoogleも購入しているのに、未だにこういうことを言うのは、量子コンピュータ=ドイチェの量子ゲート方式と思い込んでいる人だけであり、それ以外が速い理由が(量子コンピュータが高速な原理なんぞわかっていないから)わからない人だけだろう。

何だか凄そうなことを書いているが、それは計算の定義ではなく、コンピュータアーキテクチャにおける入力と出力の関係だ

ちがう。大局的にみたときの計算の定義である。

計算可能の定義は当然チューリングマシンで行う

えーっと、誰が決めたんですか?それ?あなた?(笑)

Wikipediaでもどこでも書いているでしょうが、

計算可能性理論(けいさんかのうせいりろん、computability theory)では、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論や数学の一分野である。

別にチューリングマシンなどの計算模型でやっても構わないが、「計算とは何か?」という論点とは別論点だし、円周率が計算不能=現実世界に展開しきることは不可能、というのはチューリングマシンなどをわざわざもちださなくとも、言葉の説明で誰でもわかる。

よく、量子論と哲学の関係を云々するトンデモがいるが、これもまたその類であると断じて良い

何も知らない癖に訳知り顔で、哲学をおろそかにし、わかったつもりでわかったようなこというトンデモというのはこういう人のことです。

Canadian @nkanada

量子コンピュータの解説はたまに見るが,これはひどい。間違いだらけすぎる。量子論に哲学は関係ないし,計算の定義は帰納的関数やTuring機械でするものだ。(つづく)
http://twitter.com/nkanada/status/535381156250660864
(つづき)飛行機の制御に必要なCPUはMC68040や80486DXで十分だし,昔オペアンプで作られていたアナログコンピュータが滅びた理由とか,量子コンピュータの話なら少なくともShorのアルゴリズムぐらい書いてくれ。(つづく
http://twitter.com/nkanada/status/535383107302457344
(つづき)「ムーアの法則のおわり」はR. P. Feynman,”Quantum Mechanical Computers,” Found. Phys.,Vol 16,No.6,pp 507-531,1986に明快に書いてある。読め。
http://twitter.com/nkanada/status/535384225059311616

「読め」ってこのファインマンの記事を自分は読んだことがある、という自慢がしたいだけなのでしょう。「ムーアの法則」が終わるのは、端的にムーア自身が、トランジスタ密度として原子の大きさになってしまうから、そして量子効果が無視できなくなるからと理由を説明
ムーアの法則の終焉──コンピュータに残された進化の道は?
この記事だけで十二分にアイデアはつかみきれます。ファインマンの記事は興味深いでしょうが読者がわざわざ買ってまで読む必要などまったくありません。

「事実に基づいた」反論ならば歓迎します。また何かあったらこちらで論評します。それは読者に問題を考えてもらうよい題材(反面教師)となりうるので。

実は、「スピノザの神」、仏教、密教、ヴェーダの宗教の最終真理のところで、量子コンピュータが超高速な原理の核心部分の説明はほとんど終わってしまいました。

量子コンピュータが超高速な原理

この宇宙があらかじめ持っている計算能力にアクセス

計算とは何か?
一緒に考えましたね?

計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開することです。

コンピュータとは、数学世界の数学的事実を物質世界変換・転換する特別なマシンです。

そして、わたしたちの宇宙の構造とは、こうなっています。

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ナチュラルボーン・コンピュータ

計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開すること

で、

コンピュータとは、数学世界の数学的事実を物質世界変換・転換するもの

ならば、

わたしたちの宇宙は計算するコンピュータです。

この「物質世界」は全部まるごと「数学世界」の計算結果。

わたしもあなたも全部、計算結果なのですよ。

宇宙の計算速度は無限。
全部まるごとリアルタイム処理されています。

・・・・・という説明は、

コンピュータとは、数学世界の数学的事実を物質世界変換・転換するもの

に合わせるためのものであって、もっと正確に言うと、

計算速度が無限、というか宇宙は計算なんぞしていないです。

なぜなら、

計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開すること

というならば、数学世界を変換・展開する先の物質世界ってものがそもそも存在しないからですね。

えっ?

物質とは何か?ナチュラルボーン・コンピュータなどない!

物質世界ってものがそもそも存在しない。

いや、最終真理、汎神論のところで説明したとおりで、イデア世界から万物が流出しているだけ、というのは、正味そうなんです。
比喩か何かだと思っていました?違いますよ?

まず、簡単なところから行きましょう。

手で触れられるものがありますよね?
自分の体や食べ物、それからスマホとか。
足の裏で地面も感じるでしょう。
人の温かみも感じるでしょう。

もうちょっとあやふやなものがある、水とか空気とかです。
でもまだ体で感じることが出来る物質です。

では、光はどうですか?
太陽の光、電球の光、LEDの光、液晶ディスプレイからくる光、あなたの眼に飛び込んでくる光です。

ちゃんと眼で見えるから物質と認めますか?なるほど。

電波はどうですか?
ケータイの電波のアンテナ立ってたり、圏外だったり。

実は目に見える光は可視光線、と言い、
ケータイやTV・ラジオの電波(Radio wave)
も同じ電磁波の仲間です。

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周波数が違うだけ、ということを知っている人は多いかも知れません。

でも実際こんな電磁波という波などは存在していません。
電磁波は、波ではなく、光子という素粒子でできています。

じゃあ波はどこにいった?イデアの数学世界にのみあります。
単に光子が数学の波動関数で表現されているに過ぎません。

電磁波は、波ではなく粒子です。
ケータイの電波が弱い、っていうのは、光子があんまり飛んできていないのです。パラパラとしか飛んできていない。光子の数が少ないんですね。

ケータイの電波は物質と認めますか?
でもケータイの電波が強いとか弱いということは、そこには何かがある、ってことですよね?

数学世界にある周波数が上がったら電磁波としてのエネルギーがパワーUPします。光子1個あたりのエネルギーが上がります。

ケータイの電波のエネルギーがあがると赤外線になります。

ケータイの電波の光子では何も感じられませんが、エネルギーがあがった赤外線の光子は皮膚に衝突すると温かいと感じることができます。

赤外線のエネルギーがあがると、可視光線、眼にみえる光子になります。

可視光線のエネルギーがあがると、また眼で見えなくなり、紫外線になります。エネルギーが強く日焼けしたり、ひどいときは火傷します。

紫外線よりもっとエネルギーがあがると、光子は体を貫通します。中身が丸見えになるので、X線のレントゲンで便利に利用されています。あと放射線として浴び続けると体に有害になります。エネルギーが強すぎるからです。

光子を物質として認めるでしょうか?

人間の体は細胞という物質でできています。
根本ではどうなっているか?
まあだいたい、水とタンパク質でできています。
水もタンパク質も、水素原子やら酸素原子やら炭素原子で構成されています。
原子は何からできているか?

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原子核と電子です。原子核のまわりを電子がぐるぐる回っています。
最近は
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こういう電子雲だという人も多いですが、そんな雲は間違ったイメージであり、あくまで粒子として存在しています。

雲みたいにあるのはどこか?イデアの数学世界に波動関数としてあります。
電磁波の波が波動関数としてイデアの数学世界にあるのと一緒ですね。

原子核は、陽子と中性子でできており、
これらは複合粒子、つまりもっと根本の粒子が組み合わさったもので、クオークという素粒子でできています。

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光子、電子、クオークはもうこれ以上分割できない素粒子です。

やった!ついに物質の大元に辿り着いた!

この物質の根源となる素粒子ってどれくらいの大きさなのかな??

大きさはゼロです。

ケータイの電波や太陽の光、電球の光の粒に大きさなんてあるわけがないじゃないですか。電子であってもクオークであっても一緒で、大きさなんてないんです。

素粒子の大きさはゼロです。
つまり、です。え?

つまり、イデアです。

物質界の素粒子とは単なる数学構造です。

この数学構造が変化すれば、エネルギーが強くなったり弱くなったり、光になったり、触れる物質になったりするのですよ。

なんか加速器で、粒子を衝突させて生成されたヒッグス粒子を発見!とかニュースでみませんでしたか?

質量の原因になる神の粒子だ!とか。
正確に言うと、
ニュートン力学の
運動の第1法則(慣性の法則 力が働かなければまっすぐ動き続ける)
運動の第2法則(F=ma 重いものほど動きにくい)
を司る粒子です。
もちろん大きさゼロの点、イデアです。数学構造の一種にすぎません。

同じ質量でも、
ニュートン力学の万有引力の法則を司る粒子のほうは、グラビトンといって、まだ発見されていません。
これももちろん大きさゼロの点、イデアです。数学構造の一種にすぎません。

光であろうと物質であろうと万有引力であろうと慣性の法則の元であろうと、ぜーんぶ大きさゼロの粒子であり、点であり、イデアであり、数学構造なんですよ。

空間?時間?もちろんこれもイデアです。
単なる数学構造ですよ。
アインシュタインが相対性理論で証明したじゃないですか。

この宇宙は、イデアとして過去から未来まで全部まるごと最初から存在していて、過去から未来方向にわたしたちの意識がなぞっているにすぎません。

今も昔も未来も「同時に」存在しているんですよ。
だいたい、「今」みたいなもんは、イデアの数学構造のどこにも出てきません。

「考える我」がイデアの数学構造から決定されたように「その意識にとっての今」も過去から未来へあまねく決定されていて、その瞬間瞬間のそれぞれの意識が「今だ!」と幻想を抱いているにすぎません。

物質世界=イデア世界
正確に言うと、イデア世界の一部にすぎません。

いやこれ、スピノザの「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」の汎神論で説明したとおりのことですよ。
もっというと、プラトン哲学で説明したとおりのことです。

もしびっくりしたのならば、やっぱり「わかったつもり」になるのは簡単だなあと、
ソクラテス哲学の無知の知
プラトン哲学のイデア
のことをもう一度考えてもらえたらな、と思います。

宇宙は、もともと数学しかなくて、物質世界なんてあってないようなもんなんですよ。数学構造の関係しかない。

え?まだ信用できない?
スピノザの汎神論の一元論はオカルト?トンデモ?

聖徳太子の次の世代くらいに、中国で玄奘三蔵という、いわゆる三蔵法師(尊称)がおり、仏教のオリジナルがあるインドにヴェーダの宗教の真髄を学ぶために単身留学しました。

単身留学のつもりだったんですが、中国からインドに向かう途中に猿やら豚やら河童やらがぞろぞろとついてきて、いろんなトラブルに巻き込まれてました。

中でも猿が一番調子にのっていて、名前は「孫悟空」といいました。
猿は、

スピノザの神?汎神論?トンデモだな!あーこのオカルト面白い!ないわー

とふざけていました。

カチンときたスピノザの神は、
「なら、私の手のひらから飛び出せるか?」
「もしそれができたら、根回ししてお前を神にしてやろう。」
とオファーします。

もちろん汎神論的には、この猿も宇宙=神の一部なので、
こんなオファーは子供だましなのですが、
汎神論がオカルトだと思っている孫悟空はそんなことを知る由もありません。

オファーを飲んだ孫悟空は、世界の果てまでぶっとばします。

西遊記』という公式な記録によれば、
「筋斗雲」というテクノロジーを使っていて、
最高スペックが「ひともんどり打てば10万8,000里を飛ぶ」
ということになっているので、だいたい
マッハ176000(音速の176000倍)=秒速6万kmのスピードですね。
 
世界の果てっぽいところに柱が立っていたので、
証明として自分の名前を書きました。

またぶっとばして帰ってきて、スピノザの神に、
「世界の果てっぽいところの柱に孫悟空ってサインしてやりましたけど?」
とドヤ顔で報告したら、
「それはこれのことかな?」と言われ、
スピノザの神の指をみると、そこに「孫悟空」というサインがありました。
「やばい、こいつマジでスピノザの神だわ。」
とそれ以降、孫悟空はスピノザの神を警戒するようになりました。
その後いろいろあって孫悟空はスーパーサイヤ人となり、
最終的には心底、汎神論を理解したので、
スピノザの神である宇宙と一体化しました。

三蔵法師は留学先のインドで、ヴェーダの宗教の真髄=スピノザの汎神論を学び、帰国後、漢字へ翻訳しました。

その頃日本は、もともと民族宗教である神道しかなかったんです。だから「民族宗教」ていうわけですが。

一方、大陸の中国は例の紙の情報革命やらで、高度に文明が発達していました。日本はかなり科学技術力で中国に劣っていたんですね。

当時の中国の文明、学問=宗教=仏教だったので、文明、学問に憧れる人らが日本に中国仏教を持ち込みました。
でも、古来の民族宗教である神道と対立するわけです。いつものことですが。
で、当然のように、神道派vs仏教派で、壮絶な宗教戦争を繰り広げます。

結果、仏教派の圧勝で、仏教が権力の中枢に食い込みます。
強大な権力を後ろ盾に強制改宗させながら、日本に仏教を広めていきます。

この仕事をやったのが聖徳太子です。最近は都市伝説とか言われはじめていますが、一応、聖徳太子だということになっています。

その後、真言宗の開祖、空海(弘法大師、筆を誤ったり、選ばない人

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は、インド⇒中国⇒日本と伝来してきた、ヴェーダの宗教をもって宇宙の最終真理をこう説きました。

それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵其の体なり。六塵の本は法仏の三密即ち是れなり。

如来の説法は必ず文字によっている。文字のあるところは、六種(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考)の対象をその本体とする。この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである。)

というのは、

「如来」=仏(神=宇宙)の「説法」=法則は、必ず=決定論的に「文字」=イデア世界の数学・論理構造による。
「文字」=イデア世界の数学・論理構造のあるところは、「六塵」=考える我(意識)が生まれ、それが知覚するのが「法仏の三密」=意識、物質、数学の3つを一元化した「即ち是れ」=宇宙そのものである。

ということで、

宇宙の法則とは数学である。数学により意識が生まれ、意識は(意識自体、物質、数学の3つを一元化した)宇宙そのものを知覚する。

物質世界などない。「考える我」も単なる数学構造から創発されたもので、意識も自由意志も幻想である。

こういうのを仏教では、空の思想、と言います。

仏教における(くう、梵: śūnyatā , シューニャター、巴: suññatā, スンニャター)とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。

この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っていることを論証している。
この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる
さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている(最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。これを以て、縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空であると論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。

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このスピノザの神=汎神論=宇宙の構造の図は、全部ひっくるめて、仏教の大日如来であるのと同時に、三輪身のことでもあります。

三輪身(さんりんじん)とは、密教における如来菩薩明王を、その性質に従って三種類の仏身観に分類したものである。
自性輪身(じしょうりんしん)、正法輪身(しょうぼうりんしん)、教令輪身(きょうりょうりんしん)の三身観をいう。輪とは、全体(輪、Cakra)を形成するための要素という意味で、また煩悩を摧破する輪宝のことである。

まさに、存在という現象も含めて
「関係性によって現象(全体)が現れている」
のであり、

  • 自性輪身=如来

唯一の実体であるイデア、数学世界
無限のポテンシャルにより「自性」である。

  • 正法輪身=菩薩(如来の変化身であり精神を司る神)

唯一の実体であるイデア・数学世界より流出する意識=精神世界
物質世界(脳)から創発される。

  • 教令輪身=明王(如来の変化身であり物質を司る神)

唯一の実体であるイデア・数学世界より流出する物質世界

で、これらの3つの要素・世界が輪になっている構造を三輪身と言い、すべて数学構造の関係性のみで全体が現れます。
そしてすべての根源にあるのは数学世界のみであり、数学世界の無限パターンの中から、少なくともひとつのは、この3つの要素が輪になって閉じるケースがあり、故に、自律的に世界全体が出現します。

仏教の「空」の思想とは、
デカルトによる3つの世界
「イデア・数学世界」「精神世界(考える我)」「物質世界」
からのスピノザの神、「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」汎神論そのものであることがわかります。

中国からインドへ単身留学し、ヴェーダの宗教の真髄を持ち帰った玄奘三蔵=三蔵法師は、この「空」の思想を『般若波羅蜜多心経』にまとめました。
いわゆる般若心経です。

『般若心経』(はんにゃしんぎょう)、正式名称『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう、梵: प्रज्ञापारमिताहृदय 、Prajñā-pāramitā-hṛdaya, プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は、大乗仏教の空・般若思想を説いた般若経の1つともされる経典。
大正新脩大蔵経に収録されている、玄奘三蔵訳とされる経題名は『般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれることが多い。

僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の1つとして広く用いられている。

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摩訶 般若 波羅蜜多 心経
(まか はんにゃ はらみった しんぎょう)
偉大なる”悟りを開く智慧”の真髄

照見 五蘊 皆空、
(しょうけん ごうん かいくう、)
五蘊(形あるもの精神活動のすべて)は「(くう)」であることを悟られ、
※五蘊=色(形あるもの)・受・想・行・識(精神活動)

舎利子。色 不異 空、空 不異 色、色 即是 空、空 即是 色。
(しゃりし。しき ふい くう、くう ふい しき。しき そくぜ くう、くう そくぜ しき)。
舎利子よ。
形あるもの(物質世界)はすべて「空」であり、
「空」が形あるもの(物質世界)の真の姿です。

受・想・行・識 亦復如是。
(じゅ・そう・ぎょう・しき やくぶにょぜ。)
精神活動も、また同じ(く、実体は「空」)です。

※受=心が感受すること
※想=思いをめぐらすこと
※行=意志を持つこと
※識=認識・識別すること

舎利子。是 諸法 空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
(しゃりし。ぜ しょほう くうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん。)
舎利子よ。この世にあるすべてのものの実体は「空」です。
生じることもなく滅することもなく、
汚れもせず清らかにもならず、
増えることもなく減ることもありません。

是故空中、無 色、無 受・想・行・識、
(ぜこくうちゅう、む しき、む じゅ・そう・ぎょう・しき、)
故に、「空」が実体のこの世には、形あるものも、精神活動もありません。

無 眼・耳・鼻・舌・身・意、無 色・声・香・味・触・法。
(む げん・に・び・ぜっ・しん・に。む しき・しょう・こう・み・そく・ほう。)
目も耳も鼻も舌も身体も精神もなく、(目から見える)形も(耳から聞こえる)声も(鼻で感じる)香りも(舌で感じる)味も(身体が感じる)触感も(精神が)感じ取ることもありません。

無 眼界、乃至、無 意識界。
(む げんかい、ないし、む いしきかい。)
目に見える世界も、目に見えない意識の世界もありません。

三世 諸仏、依 般若 波羅蜜多 故、得 阿耨多羅 三藐 三菩提。
(さんぜ しょぶつ、え はんにゃ はらみった こ、とく あのくたら さんみゃく さんぼだい。)
三世の仏さまも、このような智慧によって、完全なる悟りを開かれました。

三世=過去・現在・未来
※阿耨多羅三藐三菩提=サンスクリット語の「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」を漢字で表したもの。完全な悟りを開いた状態

故説、般若 波羅蜜多 咒。即 説咒 曰、羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経
悟りを開く智慧の咒文を説きましょう。その咒文いわく、「行こう、行こう、悟りの世界へ行こう。みんなで一緒に悟りの世界へ行きましょう。」以上が、”悟りを開く智慧”の真髄です。

つまり、『般若心経』は、空の思想=汎神論=スピノザの神の真理を説く経典なのです。

まあ、だから「神とはすなわち自然であり、万物に存在する」というスピノザの神、汎神論が宇宙の構造であり、
物質世界なぞ存在しない、意識なんぞ幻想だ、自由意志などもなく、すべて過去未来現在とおして数学構造として決定されている、という著者の解説について、オカルトだのSFだのトンデモだの文句がある人は是非、お葬式などで般若心経唱えている僧侶や、信仰心の厚い仏教徒にそう言ってくださいね。

ヒッグス粒子が物質の質量の起源だ、なんて言われて巷の解説読んでもさっぱりわからない

 欧州合同原子核研究所(CERN、スイス)は4日、世の中の最も基本的な粒子の一つで、物に重さを与え、質量の起源と言われる「ヒッグス粒子」とみられる新粒子を発見したと発表。「神の粒子」とも呼ばれるヒッグス粒子とは…。
▼宇宙の謎に迫る 「見えない物質」解明も
 世界の研究者らが40年以上の歳月をかけて探し求めてきたヒッグス粒子。もともと誕生した時には光の速度で動き回り、互いにほとんど関わりを持たない粒子しかなかった私たちの宇宙に、どうして現在のようにさまざまな物質があふれているのか、その謎を解く鍵になると期待される。
  浅井祥仁 ・東京大准教授によると、ヒッグス粒子が光速で 動き 回る粒子の行く手を阻むように、まとわりついて遅くさせた。これが「質量を持つ」ことの意味だという。
 ヒッグス粒子がたくさんまとわりついた粒子はより重くなり、逆に少しなら軽い粒子になる。さまざまな重さを持った粒子たちは互いにくっつき、原子をつくった。これが物質の始まりで、星や銀河、生物など宇宙が“もの”であふれるようになった。
▼「Q&A」海のように空間満たす
  欧州合同原子核研究所(CERN)でヒッグス粒子を探していた国際チームが最新の結果を発表した。
 Q ヒッグス粒子とは。
 A それ以上細かく分けることのできない素粒子の一つで、1964年に英国の理論物理学者ピーター・ヒッグス博士らが存在を予言した。陽子や中性子をつくる「クォーク」など、ほかの素粒子に重さ(質量)を与えるように働き、宇宙のどこにでもあるはずなのに見えないことから「神の粒子」とも呼ばれる。
 ヒッグス粒子がないと、あらゆる粒子は光速で飛び回り、止まることもくっつくこともできない。宇宙は、原子や分子などの物質のない世界になってしまっていた。
 Q どうやって重さを与える。
 A 大爆発(ビッグバン)で始まった超高温の宇宙は誕生から100億分の1秒後、温度が千兆度に下がったときに、ヒッグス粒子が生まれ、海のように空間を満たしたとされる。海の中では素早く動けないように、それまで光速で飛んでいたほかの粒子は、抵抗を受けて動きにくくなった。この動きにくさが質量を生むと考えられている。ヒッグス粒子と強く反応する粒子は重いが、ニュートリノはほとんど反応せずに極めて軽い。光の粒子(光子)は全く影響を受けず、質量ゼロのまま光速で飛ぶ。
 Q なぜ見つけにくい。
 A ヒッグス粒子はありとあらゆるところにあるが、姿を隠している。宇宙誕生時のような高いエネルギーの場所では姿を見せることがあるが、そのようなエネルギーを実現するには、これまでの実験装置の加速器ではパワーが足りなかった。

のも、物質、物質世界そのものが数学世界の一部でしかないという事実が世間には、まったく周知されていないからです。

筆者のようにこうやって本当のことを書こうものなら、すぐ

オカルトだ、トンデモだ!

と騒ぎ立てる、わけ知り顔の何も知らない地球平面説や天動説の人らが多いのでそんな理解が周知されるわけもありません。
非常に面倒くさいのです。

ヒッグス粒子が「点」というイデア、数学構造のことで、

もともと物質世界なんてのも数学構造に過ぎない、

その数学構造の関係なので、

質量という数学構造、慣性の法則という数学構造が生まれる、

とただそういう話でしかありません。

大きさゼロの点のイデアでしかない素粒子もエネルギーが高ければきちんと衝突するという数学構造になります。

エネルギーが低い光子ならば、衝突なんてしないですけどね。
目に見える光は全部お互いに素通りです。

あなたの体を構成している素粒子も大きさゼロの点でイデアでしかないけれども、組み合わさったら原子半径みたいな大きさだって出てくるし、エネルギーが高いので素通りなんてせずにちゃんと肉体を構成している、という数学構造になっています。

だから、安心してください。
物質世界など存在しないですが、きちんとイデアがあるのです。

この宇宙、この地球、あなたの体、あなたの「今」の意識、
ぜんぶきちんと数学構造の関係として、厳密に存在しているのです。
だから物質世界が存在する!
「我思う故に我あり!」という設定にしても何の問題もありません。

実際そういう現象が起こっている、
と意識に錯覚させる数学構造であることは確かなのですから。

物質的な世界 精神の世界  因果(イデア)の世界
という3つの世界を超越することができます
ゆえに私は常に
あの 宇宙の究極の実在を  あがめます
日々瞬間・瞬間、私は
この究極の輝き  叡智の実在を、 深く瞑想します
私の奥底の常の願いとして
叡智によって われらが光となり、究極の実在と一つになることができますように。

とヴェーダの宗教もマントラ(真言)を唱えてちょっと落ち着けよ、
けして無気力になったり投げやりになるんじゃないぞ?と推奨しています。

計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開すること

というならば、

数学世界(の一部分、3つの世界の図を参照)
物質世界
と同一(汎神論の一元論)なので、
数学世界を変換・展開する先の物質世界なんてものがそもそも実体として存在なんてしていないのだから、

宇宙は計算なんぞしていない、
ナチュラルボーン・コンピュータなどない!

ってことになります。

同じもの(汎神論の一元論)なのに変換・展開って意味がおかしいでしょ?ってことです。
もうそれはすでに同じものとして最初から対応しているのですから。
対応している結果論として、同じものなのに、あたかも違う世界を構成している、という順序なんですね。

ナチュラルボーン・コンピュータの無限の計算速度とボトルネック

宇宙は計算なんぞしていない、
ナチュラルボーン・コンピュータなどない!
宇宙の計算だの計算速度だの言うものはありません。

イデア世界の無限の可能性から、絶対にひとつは出てくる、実際に出てきているこの宇宙が存在すると同時に、宇宙が最初から、過去から未来まで全部まるごと決定されているのです。
 
計算というのであれば、この宇宙ができたと同時に、過去から未来まで全部の計算が完了しているのですよ。

だからそれを「宇宙の無限の計算速度」と表現しても構いません。

数学で「無限」ってのは実際にあります。

数学の「無限」っていうのはこういう、ほんとうに恐ろしい代物で、ものごとの根本の本質、存在の仕方そのものに深く関わっており、ものごとの意味をまるで変えてしまいます。

「宇宙の無限の計算速度」っていうのは、「宇宙が最初から、過去から未来まで全部まるごと存在しており決定されている」って意味とまったく同じです。

というものごとの意味を本質的にかえてしまう恐ろしいものが存在するがゆえに、

「宇宙が最初から、過去から未来まで全部存在しており決定されている」

「宇宙は無限の計算速度をもつコンピュータである」

と同じ意味にしても別に構いません。

つまり、

「ナチュラルボーン・コンピュータなどない!」

「宇宙は、無限の計算速度能力をもつ、ナチュラルボーン・コンピュータ」

と同じ意味にしてもまったく構いません。

そしてこれこそが巷の量子コンピュータの原理の解説でまったく触れられることがない、もっとも根本的かつ重要なポイントなのです。

量子コンピュータが速い、暗号解くのに数億年かかってたのが数秒でできる!

「すごい!なんでですか!?」

量子力学で量子は状態の重ねあわせでそれがQビットで並行計算ができるから、なんちゃらかんちゃら、でも専用のアルゴリズムが必要で、、、
はい、これなんの説明にもなっていません。

じゃあね、その「数秒」ってのは何ですか?なんで数秒かかるんですか?
そもそも数億年が数秒に劇的に短縮された速度の源泉もわからない。

こたえは、
宇宙の計算速度が無限であり、
それを利用するのにいくらかのボトルネックがあるから
です。

例のアナログ・コンピュータのおはなしです。

ナチュラルボーン・コンピュータにアクセスして計算に利用しようとする人間の科学技術レベルに応じて、無限の計算能力にたいして、いくらかのボトルネックがあります。

そのことを次におはなししましょう。

ナチュラルボーン・コンピュータのつかいかた

では、ナチュラルボーン・コンピュータのつかいかたを説明します。

幼稚園児くらいの子供に、3+4は?

みたいな算数の問題を出してあげます。

これは彼ら幼稚園児にとっては超難問です。
彼らの脳=コンピュータで太刀打ちできるような問題ではありません。
計算量は膨大であり、いったいいつになったら計算が終わるのか?
想像すらつかないのです。

しかし、この複雑で計算量の大きい問題を解決するスーパーメソッドがひとつだけあります。
彼らがいかにこの困難な状況を打開するのかを見てみましょう。

彼らはまず、指を伸ばしたり折り曲げたりします。
その動作が完了すると続いて、「1,2,3・・」と数えはじめます。

数え終わると同時に、

「7!」

なんと当初は、到底不可能に思えた難解な問題をごく短時間で答えをはじきだしてしまいました!

「計算」の答えはもちろん合っています。

彼ら幼稚園児はナチュラルボーン・コンピュータの利用法を熟知しているのです。

彼らは宇宙の計算能力を利用して計算しているのですよ。
まるで我々とはレベルが違います。

彼らは何をやったのか?
まず、
 

3+4=

という数学世界の難解な問題を、
自分の指という物質世界に展開し、
実験」して
実験結果を「観測」した結果、
正しい答えを短時間で計算することに成功したのです。

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この3つの世界のループを回したんですよ。

自分の脳を使うとか、そんなエネルギー効率の悪いことなんてしません。
エネルギー0で、宇宙に一瞬で計算させて計算結果だけを首尾よくいただいているのです。賢いですね。

もちろん指を折り曲げたり伸ばしたり、という
数学世界の問題を自分の指という物質に展開しおわるまでの時間、
そして、
1,2,3と数えおわる観測終了までの時間、
計算速度のボトルネックと、もろもろの肉体運動のエネルギー消費はありますよ?

でも、そんなのは本質ではない些細な問題でどうでもいいじゃないですか。
ポイントは演算を脳というコンピュータではなく宇宙にやらした、ということです。

もろもろのボトルネックはボトルネック、
計算自体は一瞬で完了しており、
計算自体に要したエネルギーは0です。

この宇宙、ナチュラルボーンコンピュータを活用する計算メソッドは極めて計算速度が速く、エネルギー効率が良く、ポテンシャルが高いので、ボトルネックが大きい問題については、それはそれとして、おいおおい改良していきましょう。

おそらく、電気回路を利用したり、もうちょっと頑張って量子力学の波動関数辺りを活用してみたらいいんじゃないか?と思うわけです。

量子コンピュータが超高速である原理と量子論とそれに至るまでの科学哲学史をゼロからわかりやすく解説01

これは連載記事です。

これは連載記事で、順次更新されます。

量子コンピュータとは?ひとことで

この宇宙があらかじめ持っている計算能力に量子のレベルでアクセスして計算するマシン。
ちなみに、よくある、量子ビット,キュービット、キュビット、クビット(英: qubit)、Qビット(英: Qbit)のお話は、量子コンピュータの原理を理解する上で結構どうでも良い、むしろ理解する上で妨げとなります。
量子ビット(Qbit)を単位とする量子ゲート方式は、量子コンピュータの具体的な実装方法を考案したデイヴィッド・ドイッチュによる最初の方式なのですが、これは量子コンピュータを実装する上で唯一の方式ではなく、おまけに現在かなり分が悪いので、ここから量子コンピュータの原理を学ばないほうが良いと筆者は思います。
以下の図のように日本独自の量子コンピュータとしての、「レーザーネットワーク方式」や後述するD-Waveの「量子アニーリング方式」など、現在複数の方式があります。

日本独自の量子コンピュータ ITPRO・日経コンピュータ の記事より引用 
量子ビット(Qbit)を単位とする量子ゲート方式の説明というのは、単に量子コンピュータの一つの実装の方式の説明にすぎません。
それは、いわばスペック解説みたいなもので、スペック解説をいくら読んだって量子コンピュータが超高速である原理なんてわかるはずもありません。
量子コンピュータが超高速である原理を理解するためには、この世界、宇宙がどうなっているのか?という深い理解が必要です。研究者・解説者、入門者、皆この一番根っこの一番大事な部分を「量子コンピュータの原理には関係ない」と思い込んで、不精してすっとばすからわけのわからないことになっているのです。
この記事では、全部の方式に共通する量子コンピュータの根本の原理つまり宇宙の仕組み、それから量子論について、そして何より大事な、そこに至るまでの科学哲学の歴史を中学生にも(多分)わかるレベルで解説していきます。
 

フリーの超高性能コンピュータはいかが?

「我々は、とにかく速いコンピュータが必要だ!欲しい。」
消費者は、年に何回も新しいコンピュータ(スマホ・タブレット・PC)に買い替え、アメリカも政府、大企業一体となり懸命に高性能なコンピュータを研究開発しています。
もうなんというか必死です。
「でも、それも最近どうも行き詰まってるんだよね〜先行き暗くて・・・」
どんよりと落ち込んだわれわれ人類ですが、何故かよくわかりませんが、毎度必ずそういう行き詰まった時に限ってとんでもないブレイクスルーが起こります。科学技術史を振り返ると、指数関数の尺度(ムーアの法則のように倍々ゲームなのでそうなる)では人類は必ず一定の速度で進歩し続けるようになっているのです。
「そこのあなた、超高性能コンピュータがあるんですけど、いかがですか?」
「お、いいね、計算速度は?」
「えー、お客様の科学力によってボトルネックはあるんですが、理論値だけで言ってしまうと、ほぼ無限の速度がでます。」
「冗談だよね?そんなコンピュータがあるの?」
「はい、あります。」
「でも、お高いんでしょう?」
「いえ、キャンペーンでも何でもないんですけどタダ(無料)でご用意できますよ。」
「ちょっと話がうますぎる気がするなー、現物見せられる?」
「もちろんです、こちらにお持ちしましょうか?」
「うん、頼むよ。」
「実は、この宇宙そのものです。」
「・・・・・えっと、説明書もらえる?」
「この宇宙そのものです。」
「・・・・・」

なぜ今、新しい原理のコンピュータなのか?

こたえは、「時代が求めている」からです。
AppleのiPhoneをはじめとして、毎年、いや半年に1回くらい、次から次へ新しいスマートフォンやらタブレットを大々的に発売開始している現状はみんなよく知っていると思います。
中身はもちろんコンピュータです。どんどん高機能になり小型化する、あるいは、前と同じサイズで高性能になっていく。
そして皆、新製品が出るたびに飛びつくように買っていますよね?
個人のスマートフォンだけではなく様々な分野でコンピュータの性能は高いに越したことはない、ネット接続も高速なほうがいいし、仕事のやり方も変わってきます。天気予報もコンピュータで精度があがるのだし、人工知能も普及してきました。
科学技術が進歩する。人々はそれを歓迎している。人類の科学技術の進歩は止まらない。そういう性質があります。事業仕分けで問題にもなった世界のスーパーコンピュータのスピード競争というのは、もうそういう人間の性であるとしか言いようがありません。
コンピュータの速度は年々速くなっています。
ムーアの法則
ムーアの法則(ムーアのほうそく、英: Moore’s law)とは、コンピューター製造業における歴史的な長期傾向について論じた1つの指標であり、経験則に類する将来予測である。米インテル社の共同創業者であるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文上に示したのが最初であり、その後、半導体業界やコンピュータ産業界を中心に広まった。
「部品あたりのコストが最小になるような複雑さは、毎年およそ2倍の割合で増大してきた。短期的には、この増加率が上昇しないまでも、現状を維持することは確実である。より長期的には、増加率はやや不確実であるとはいえ、少なくとも今後10年間ほぼ一定の率を保てないと信ずべき理由は無い。」
集積回路上のトランジスタ数は18か月(=1.5年)ごとに2倍になる
1965年にムーアがこの法則を示唆して以来、2015年まで 実に50年間も、この法則のグラフの直線上に乗る形でコンピュータの処理能力は向上してきました。驚くべきことですね。
しかし、
ムーアの法則の終焉──コンピュータに残された進化の道は?
 マイヤーソン氏は、10年以上の長きにわたってシリコンゲルマニウムなどの高パフォーマンス技術の開発の最前線に立ち続け、2003年からはIBMのグローバル半導体研究開発部門の責任者を務めている。
 同氏は「ゴードンは天才だ。何十年も変わらない真実を人生の中で発見した、数少ない人物のうちの1人だ」とムーア氏をたたえる。しかし、ムーアの法則を裏付けてきたチップ製造テクノロジーは変わり、今やこの法則は限界に達してしまったとマイヤーソン氏は感じている。
 マイヤーソン氏によると、2005年のチップには既に、厚さがわずか原子数個分のパーツが存在したという。トランジスタのパーツがそこまで薄くなると、動作が変わってくると同氏は話す。
半導体業界は新たなテクノロジー、プロセス、業界の構造を生み出す必要に迫られている。ファブリケーションのテクノロジーとして現在注目されているのは14ナノメートルチップだ。「今後2~3世代のチップとシリコンは量子力学の世界に行ってしまい、通常のトランジスタのような動作ではない。だから今までの常識はもう通用しない」とマイヤーソン氏は語る。
同氏はそんな現在の状況を「ITのポストシリコン時代」と呼んでいる。ただしマイヤーソン氏は、現在のテクノロジーが、シリコンに代わる素材のチップが大量生産される段階まで進化しているとは考えていない。「シリコンはなくなるわけではない。しかし現在のポストシリコン時代では、シリコンであることのメリットはない。速くもなく、安くもなく、トランジスタのレベルで優れているわけでもないのだから」(マイヤーソン氏)
ムーア自身も
2005年4月13日、ゴードン・ムーア自身が、「ムーアの法則は長くは続かないだろう。なぜなら、トランジスタが原子レベルにまで小さくなり限界に達するからである」とインタビューで述べている。
ということで、さすがに行き着くところまで行ってしまった、原理的な限界に達したようです。原子より小さいトランジスタはちょっと考えられないだろうし、果たしてここまでなのでしょうか?
我々の直感では、コンピュータの歴史がこれで終わりになるはずがない、とわかります。これをもうちょっと体系的に整理した、レイ・カーツワイルという研究者がいます。彼のTEDカンファレンスでのスピーチ
カーツワイルは、ムーアの法則をより広い視点で拡張しました。
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ムーアの法則を、カーツワイルが拡張したもの(収穫加速の法則)。
集積回路の登場より以前のトランジスタ、真空管、リレー、電気機械式コンピュータまでさかのぼり、基本的なトレンドがパラダイムシフトによって維持されていることが示されている。
つまり、人類の科学の歴史を遡ると、ムーアの法則が語るトランジスタ式のコンピュータよりも前からコンピュータというものはあり、そこにもムーアの法則の直線が延長して成り立っている!
そして、過去から現在のみならず、今後の未来にも同じように適用されるはずだ!
ということですね。ある技術が行き詰まると「パラダイムシフト」があり、必ず次の技術へのブレイクスルーが起こると。
レイ・カーツワイル版拡張ムーアの法則によると、現行のコンピュータのシリコン・トランジスタ技術がムーアの法則の限界点にあるのだから、まもなく何らかのブレイクスルーが起きる
全く壮大で楽観的な経験則ではありますが、長い人類の科学史をみても、これは真理で必ずそうなっているのです。
そしてもちろん、来るブレイクスルーとは、現在注目を集めている量子コンピュータに他なりません。
D-Wave社の量子コンピュータは「本物」~米研究者グループが「量子効果を確認」とネイチャーに発表 (2013/7/1 11:09)
 カナダのD-Wave社が開発、販売した「量子コンピュータ」が本物である可能性が極めて高くなった。
 28日、米国の研究者グループがNature Communicationsに発表した論文の中で、「量子効果を確認した」と主張しており、この論文内容が認められれば、今世紀初め以来利用されてきたコンピュータの原理と本質的に異なる量子コンピュータが現実に商業的に販売されていることになり、これまでよりもはるかに高速に特定の問題を解くことが可能になる。
 D-Wave社は2011年に同社初の量子コンピュータ「D-Wave One」を発表し、米国最大の防衛産業企業ロッキードマーチン社との契約を締結した。また2013年5月には、米NASAと米Googleなどが購入契約を締結している。
 これまでD-Waveが量子コンピュータであるか否かについて、物理学者たちの間で意見の一致を見ていなかった。それでも確かに高速に問題を解くことができているとの見解が複数の研究者により繰り返し発表されてきた。
 今回、28日に南カリフォルニア大学のSergio Boixo氏とTameem Albash氏、Daniel A. Lidar氏らの研究チームがNature Communicationsに発表した論文「Experimental signature of programmable quantum annealing」の中で、D-Waveのコンピュータが古典力学に従うコンピューティングモデルではなく、量子力学的効果を使用していることが確認できたと主張している。
 Lidar氏は「8量子ビットを含む具体的なテスト問題を使用して、我々はD-Waveプロセッサは、量子アニーリングとは一致するが、古典的アニーリングの予測とは矛盾する手順で最適化計算を実行することを確認した」と説明した。また論文第一筆者のBoixo氏は「私たちの仕事は、純粋に物理的な観点から見たときに、量子効果がD-Waveプロセッサでの情報処理において、ある機能を持つ役割を果たしていることを示しているようだ」と説明している。
 「量子アニーリング」とは、量子力学的効果を使用して最適化問題、特に組み合わせ最適化問題と呼ばれる種類の問題を、これまでのコンピュータよりもはるかに高速に解ける汎用アルゴリズムを提供する。
 この種のコンピュータは一般的な意味での汎用量子コンピュータとは異なるが、量子効果を使用しなければ実現できないことから、本物の量子コンピュータの一種として認められている。
 しかしそれでも、D-Waveが主張するほど大規模な回路で実現できるかどうか、疑問の声が上がっていた。そのためこれまでは、量子効果を古典力学的にシミュレートすることで何らかの高速化を実現しているのではないかという疑いを持たれていたという経緯がある。
 今回の論文が他の物理学者達によって追認され、正しいことが確認されれば、D-Waveは世界で初めて本物の量子コンピュータを開発、販売したことになる。
 GoogleはD-WaveをNASAと共同購入し、機械学習などに使用することを明らかにしていた。
 一般に組み合わせ最適化問題で解ける問題の種類としては、カーナビのルート検索、学校やプロスポーツ界の時間割や対戦計画の作成、生産能力の違う工場の生産割り当て計画の作成、運送会社や大企業の配送ルートや計画の作成などがあり、計算速度は遅いためかなりの工夫が必要とは言え、実社会の現実問題で既に不可欠となっている。
GoogleとNASAが共同で“量子コンピューター”研究所を設立
(2013/5/17 11:49)

 米Googleは16日、米NASAと共同で量子コンピューターを使用できる研究所の共同開設を発表した。
 GoogleとNASAのエイムズ研究所は、共同で「Quantum Artificial Intelligence Lab(量子人工知能研究所)」を設立するし、研究所にはカナダのD-Wave社による量子コンピューターを設置する。この計算資源は、学術団体USRA(Universities Space Research Association)を通して米国内の研究者も利用できる。
 Googleの目的は、機械学習を進展させる可能性がある量子コンピューティングについての研究だとしている。機械学習には、数学的にNP困難と呼ばれる計算に天文学的な時間がかかる問題があり、これをより高速に解くために量子コンピューターが役立つとGoogleは考えている。
 Googleでは、既に機械学習のための量子アルゴリズムをいくつか開発したという。
 量子コンピューターを研究所に納めたD-Wave社は、研究所での用途として検討している内容として、「機械学習、ウェブ検索、音声認識、計画とスケジューリング、太陽系外惑星の探索、管制センターの運用支援」を挙げ、幅広い用途が可能だとアピールしている。
 また、納入プロセスの中で、D-Wave社製量子コンピューターが好成績を収めたとも説明。Google、NASA、USRAが作成した一連のベンチマークテストの結果、D-Waveのシステムはベンチマークの水準を満たしたか、要求水準を大幅に超える場合すらあったとしている。
 D-Waveの“量子コンピューター”については、本当の意味での量子コンピューターではないという意見も多く、議論となっている。
 2013年には、米Amherst大学のコンピューターサイエンスの教授がD-Wave製コンピューターに関する一連の計算実験を行った結果、特定条件下では、既存コンピューターよりも実際に高速であることを確認したと発表している。
 Amherst大学の5月7日付プレスリリースによると、研究を行ったのはCatherine McGeoch教授とSimon Fraser University大学院生のCong Wang氏。研究論文は査読の上、5月15日にイタリアで開かれた「2013 Association for Computing Machinery (ACM) International Conference on Computing Frontiers」にて、10ページの論文「Experimental Evaluation of an Adiabiatic Quantum System for Combinatorial Optimization」として正式に発表された。
 それによると、D-Waveのコンピューターは、特定の「組み合わせ最適化問題」と呼ばれる種類の問題で良い成績を収めたとしている。そして「量子コンピューターであるか否かに関わらず、研究する価値があるこれらの問題を解決するための興味深いアプローチだ」とコメントし、量子コンピューターであるかどうかの立場を定めることは注意深く避けた。
 その上で、D-Wave製コンピューターの計算能力について、「特定の問題については、テストしたサイズの問題であれば、私が知っているどんなものよりも数千倍も速い。もしそのサイズのより一般的な問題を解決することを望むならば、競合できるとは言える。私が見た最高のもののいくつかと同様にはできる。この点では単に平均以上というだけだが、有望なスケーリング軌道を示している」としている。
 今回、GoogleとNASAが「お墨付き」を与えたことで、他社も追随する可能性が出てきた。これはD-Wave社にとっての朗報にとどまらず、新アルゴリズムの開発によっては、将来大きな業界変動につながる始まりとなる可能性もある。
Googleはなんとなくわかるのですが、NASAとか米国最大の防衛産業企業ロッキードマーチン社というのはどういうことでしょうか?
NASAが航空宇宙技術のアメリカ政府機関ということは誰でも知っていますが、一般にあまり知られていないこととは、航空宇宙技術というのが軍事技術と表裏一体であるという「世界の常識」です。
建前上は、宇宙条約で宇宙の軍事利用は禁止されているのですが、政府機関なのだし、NASAのテクノロジーはぜんぶ軍事技術へフィードバックされます。そもそも、宇宙ロケット技術ってのいうのは、もともと軍事ミサイル技術なんですね。
いずれにせよ、そういうアメリカの航空宇宙産業やら軍事産業が、高速なコンピュータを本気で求めているのはなぜなんでしょうか?
宇宙物理学者で神戸大学名誉教授の松田 卓也先生によると、
基礎科学研究所
史上初の商業用量子コンピューター D-Wave
ロッキード・マーチン社の大きな問題は開発コストの増大である。そのなかでもF35などの戦闘機用に開発しているソフトウエアーの正当性の検証に費用がかかる。どんなプログラムにもバグがつきものである。正当性の検証に開発コストの半分が費やされると言う。その問題に主任科学者のネッド・アレン(Ned Allen)が取り組んできた。プログラムの検証方法として、デジタル・コードをアナログ・コードに書き換えて、それをアナログ・コンピューターで走らせることをアレンは考えた。量子コンピューターは1種のアナログ・コンピューターである
彼は量子コンピューターの専門家である南カリフォルニア大学のダニエル・ライダー(Daniel Rider)に相談したところ、D-Waveを推薦された。アレンはD-Wave社の量子コンピューターに関する論争を知っていたので、あまり乗り気はしなかったがライダーは強力に推薦した。そこでアレンは古い戦闘機F16のすでに開発されているコードをD-Wave社に送った。このコードにはバグがあり、社内の技術者がそれを発見するのに数カ月もかかったものである。そのバグはD-Wave社により6週間で発見された。そこでアレンは量子コンピューターの可能性を確信し、会社のお偉方を説得して量子コンピューターD-Wave Oneを買わせた。
今のジャンボ・ジェット機や特に戦闘機はコンピュータによって機体を制御しながら飛んでいます。フライ・バイ・ワイヤといいます。
フライ・バイ・ワイヤでは、パイロットの操作はコクピットで発信器を介して電気信号に変換され、電線(ワイヤ)により、飛行制御コンピュータ(加速度と傾き検知するセンサーとコンピュータを組み込んだもの)を介して油圧又は電動のアクチュエータに伝えられる。
今までの操縦システムでは、航空機の姿勢を変える場合には、一旦大きく動翼を操舵して姿勢を変えた後、反対に動翼を操舵してから中立の位置に動翼を戻す、当て舵と呼ばれる操作が必要だったが、フライバイワイヤでは、飛行制御コンピュータが計算して当て舵を必要な分だけ取ることが可能となったため、飛行性能が良くても、操作性や安定性が悪くて乗れなかった航空機を実用化できることが可能となった。
航空力学的に、安定した飛行機はそれだけキビキビと飛行しにくい、キビキビと飛行する飛行機はその分だけ安定性がないです。
それゆえ従来では、特に戦闘機では、ある程度の機体の安定性を確保するために飛行性能を出すには限界があった。まずは普通にちゃんと空を飛べないとお話にならないですからね。
しかし、常にコンピュータに機体の姿勢を制御させておけば、どうか?
飛行性能を最大限に重視して空力安定性なんてなくしたって飛べてしまうわけです。
逆に言うと、コンピュータの制御がないと戦闘機は墜落します。
コンピュータこそが機体の生命線であり、戦闘機のシステム(ソフトウェア)の不具合とかまず絶対に許されない。だからこうやって「正当性の検証」=デバッグにコストかけているんですね。
Dwave Oneという量子コンピュータは、1台10億円らしいです。。。
しかし、まあF35の開発費の半分がソフトウェアのデバッグというのは、びっくりです。多分、総開発費の内訳のソフトウェア開発費のうちの半分、ということなのでしょうが、米国防省筋の試算ではF35には既に開発費で30兆円程度を投資しているらしい、のでいずれにせよ、半端なく巨額です。なので10億円くらい払ってでも高速なコンピュータはほしい、ということなのでしょう。
かつて「インターネット」という新しいコンピュータネットワーク技術開発のスポンサーが米国防総省であったのもそれなりによく知られている事実ですが、かつてのその位置に今の量子コンピュータ開発があると看做してまず間違いないです。
Google、量子コンピューターの独自ハードウェア開発に乗り出す
(2014/9/3 11:04)

Googleというインターネット企業が量子コンピュータに大々的に投資しているのは、もちろん人工知能技術に使うためで、インターネットの次に世界を変える技術は量子コンピュータ(と人工知能技術)です。
そしてこのようなイノベーションに欠かせないのが経済的なコスト、つまりカネの問題です。
 
「電気代がサーバ本体よりも高くなる」–グーグルエンジニアが警告 2005/12/12 12:23
コンピュータの消費電力に対するパフォーマンスが今日のレベルから改善しなければ、マシンの運用に必要とされる電気代がハードウェア自体のコストを大幅に上回る可能性があると、Googleのあるエンジニアが警告を発した。
「コンピュータ機器の消費電力を抑えられなくなれば、地球環境全体への影響はもちろん、計算処理全体に関してコスト面で深刻な問題が生じる可能性もある」(Barroso)
Barrosoによると、Googleのコンピューティングインフラは、ここ3世代でパフォーマンスがほぼ倍増したが、消費電力あたりのパフォーマンスがほとんど変わっていないため、電力使用量もほぼ倍増したという。
Googleのデータセンターでは、主としてx86プロセッサを搭載したローエンドサーバを利用しているが、サーバの消費電力が1年に20%増加すれば、1台のサーバにかかる4年分の電気代が、典型的なサーバの購入費用である3000ドルを上回ってしまう。しかし、もし消費電力が年間50%増加すれば、電力料金が現状のキロワットあたり9セントを維持したとしても「2010年までに電気代がサーバ本体の価格を大幅に上回ることになる」と、Barrosoは説明している。
「CMPだけでは電力効率の課題を解決できない。今後2〜3世代のCPUで問題を緩和するのがせいぜいだ。長期的なトレンドに対処するには、基本的な回路やアーキテクチャの技術革新が依然として必要とされている」(Barroso)
これは、すでにもう約10年前の記事で、現在のGoogleのデータセンターでは、すでにサーバマシンのコストよりも電気代のほうが高いというのは知る人ぞ知る有名な事実です。Googleのデータセンター運営コストの7割くらいは電気代だということで、Googleはデータセンターを
  • 電力発電所の近くに作る
  • 電力を極力安く卸してくれる地域に作る
  • 冷却コストを削るために、なるだけ寒冷地に作る
という対策をとっているそうです。
サーバコンピューティングに限らず、我々消費者でも、スマートフォンやタブレット、ノートPCとバッテリ消費、連続稼働時間は結構深刻な問題ですよね。デバイスの性能は年々あがるが、常に充電のことを気にしていて、これは技術の進歩のボトルネックであるのは痛感するところです。バッテリというのは重量が重いので、大容量にすると、もちはこびに不便になる、というのも痛感するところです。
量子コンピューターは、現在のコンピュータの計算量と発熱やバッテリの問題を解決します。

量子コンピュータのホンモノ・インチキ論争、実現可能性と実用性、量子コンピューター学界の研究者や権威の信用性とポジショントーク

ふたたび、基礎科学研究所より抜粋しながら引用
史上初の商業用量子コンピューター D-Wave
 
グーグルが最近D-Wave社の量子コンピューターを購入して、NASAのエームズ研究センターに設置したというニュースが流れた。量子コンピューターの研究者たちの意見では、量子コンピューターはまだ研究段階で実用化にはほど遠いと言われていたから、このニュースは驚きである。
この会社の第一号機はアメリカの大手航空機会社ロッキード・マーチンに納入された。そして第二号機がグーグルに採用された。という事は、量子コンピューター学界の権威者たちが言うように、D-Wave社の量子コンピューターがインチキであると決めつけるわけにはいかない。そこで本エッセイではD-Wave社の量子コンピューターとはどんなものかについて報告する。
 
1.D-Wave社の量子コンピューターを巡る論争
研究者の中にはD-Wave社の量子コンピューターは全く量子コンピューターではなくインチキであるとまで言う者もいる。
D-Wave Defies World of Critics with ‘First Quantum Cloud’
D-Waveはカナダの会社であり、創始者のジョルディ・ローズ(Geordie Rose)は量子力学で博士になった人だが、ブラジル柔術の世界チャンピオンであり、カナダのチャンピオン・レスラーでもある。写真からいかつい風貌が伺える。まさに文武両道と言えよう。
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カナダの新聞紙 The Vancouver Sun より
ローズは大学で起業家を育てる授業を受けていた。そこで新しい企業を起こす議論がなされた時に他の学生が量子コンピューターの会社を作ってはどうかと提案した。ローズは量子コンピューターについてそれまでは知らなかったのだが、その話を聞いて勉強し、量子コンピューターを作る会社を起こそうと思った。講座の先生が数千ドル投資してくれた。それで会社を作ったのである。
D-Wave社は当初、他の研究者の量子コンピューター研究を支援した。その成果や特許は現在D-Wave社のものになっている。2003年にD-Wave社は量子コンピューティングの中でも、主流ではない特別の方法、断熱モデルというものを採用することにした。以下のローズのインタビューにその間の歴史が語られている。
<Financial Post-FP Innovators-Dr. Geordie Rpse, D-Wave>
断熱モデルを採用したことが長年の論争の始まりである。
というのは量子コンピューター学界の主流は別の手法、ゲートモデルというものを採用しているからである。学界のお偉方は実際に役に立つ量子コンピューターの完成にはまだ数十年を要すると言ってきたのである。
だからD-Wave社が、商用の「量子コンピューター」を売り出したと言っても、信じるわけにはいかないのだ。だから学界の主流はD-Wave社の量子コンピューターを認めないのである。(6/24 追加 D-Wave社がゲートモデルを捨てた理由は、ノイズの問題をクリアできないと判断したからである。しかし断熱モデルでは、これをクリアできていることは、実際に製品が出来ていることから明らかだ。0.02Kの低温度の達成と、磁場のシールドの技術がD-Waveのウリである。)
D-Wave社とローズが反発される別の理由は、多分ローズが権威を認めない生意気な若造であるからであろう。
さらにもう一つの表向きの理由はD-Wave社の秘密主義にある。彼らは最近まで研究成果の論文を公開してこなかった。これはアカデミックな世界では認められないことだ。
しかしアカデミックな研究機関ではなく、企業なのだからある程度の秘密主義は当然である。もっとも最近になって、研究者たちの論文がぼつぼつ公開されるようになった。例えば次の論文では、 D-Wave社の量子コンピューターの速度を検証している。その結果、特定の問題では普通のコンピューターの1コアの3600倍から1万倍の速さであることを実証した。
Experimental Evaluation on an Adiabatic Quantum System for Combinatorial Optimization
D-Wave社の最初のマシンは2007年に発表された16量子ビットのコンピューターであった。ビット数は毎年倍々ゲームを続けている。最新のマシンであるD-Wave 2は512量子ビットを採用している。ちなみに正統派の量子コンピューターはまだ試作段階でありここまでの量子ビット数は実現していない。次のビデオは量子ビット数の増加について示している。
<D-Wave Quantum Computer Scaling>
D-Wave社に対する風向きが、最近少し変わってきたのはアメリカの大手航空機会社であるロッキード・マーチンがそれを導入したからである。次のロッキード・マーチン社の宣伝ビデオでは、ロッキードと南カリフォルニア大学の人々が量子コンピューターの可能性について語っている。またアマゾンの創始者のベゾフやCIAもD-Wave社に投資することを決めたことが報道された。
しかし学界のお偉方の一人はD-Wave社の量子コンピューターなど、たとえ動いたとしてもその速度は携帯電話程度のものであろうとまで言っている。
しかし先に紹介した論文では特定の問題に関して、この量子コンピューターは普通のコンピューターの3600倍から1万倍速いということを示した。つまり実用に耐えることが分かってきたのである。
別の学者は、これは従来のシリコンコンピューターではないが、かといって真の量子コンピューターでもなく、一種の古典コンピューターに過ぎないが、有用かもしれないと主張し始めている。
また将来批判されるのを恐れて、批判するのをやめた学者もいる。
しかしD-Waveが真の量子コンピューターかどうかという宗教論争よりは、それが実際に役に立つかどうかが重要だと思う。現状ではアルゴリズムの研究がまだ不十分なので、その能力を十分に発揮できていない。普通のコンピューターに比べてそれほど速くないという主張は、生まれたばかりの赤ん坊に大人と競争しろと言うようなものだ。またいわゆる「真の量子コンピューター」は、まだ生まれてもいない胎児であるから、こちらは出発点にも立てない。さらに、それがたとえ生まれたとしても、現状ではやはり汎用コンピューターではなく、特殊目的の速いコンピューターに過ぎない。そうなら、すでに生まれた子供の将来に期待するのが良いかもしれない。
量子コンピューター学界の主流がD-Waveに批判的なのは、 1つには嫉妬があるであろう。彼らが長年にわたり一生懸命研究してきた「真の量子コンピューター」をさておいて、「まがい物」の量子コンピューターが「量子」コンピューターと銘打って市場に現れ、それが成功を収めたら面白くないだろう。またそれが社会の注目を浴びたら、主流派の研究者に研究予算が下りなくなるかもしれない。彼らはこれを1番恐れていると思う。
今後の見通しに関して筆者の予想を述べる。D-Wave社の過去の実績では、毎年量子ビット数は倍増している。
D-Wave量子コンピュータの構造上、量子ビット数は4倍ずつ増やすのが良い。すると2年後、つまり2015年には2048量子ビットを持つD-Wave 3が発表されるであろう。その調子で行けば、2017年には8192量子ビットになる。そのころになってもまともな「真の量子コンピュータ」が出来ているかはあやしい。
現在、世界で稼働しているD-Wave量子コンピュータは南カリフォルニア大学のものだけで、秋にはGoogleのものも稼働を始める。この計算時間の一部は研究者に公開されるので、応募して認められれば使用することが出来る。するとここ数年のうちに、さまざまな新しいアルゴリズムが開発されるであろう。米国やその他の国の研究機関でD-Waveを導入するところが現れるかもしれない。するとさらにアルゴリズム研究は進むであろう。研究費獲得の面でも有利になると思われる。一方、「真の量子コンピュータ」への予算配分は少なくなる可能性もある。
真の量子コンピュータは量子的もつれ(エンタングルメント)という現象を用いる。一方D-Waveはトンネル効果を用いる。どちらも量子的効果であるが、原理は異なる。真の量子コンピュータの問題点は、ノイズに弱いということだ。エンタングルメントがノイズによりデコヒーレンスして位相情報を失い古典的になってしまう。ローズがビデオで述べていることは、真の量子コンピュータはこの困難を乗り越えることができないだろうと、早くからあきらめて別のアプローチ、つまり量子焼き鈍し法を採用したのだ。それがすでに実用的なコンピュータを作れた理由である。
真の量子コンピュータは夢のコンピュータだと言われる。
核融合は夢のエネルギー源であると言われてきた。それは20年後には実現するだろうと、1960年代から言われてきたのだが、まだ実現していない。量子コンピュータも1980年代から夢のコンピュータだと言われてほぼ30年がたつ。10量子ビットを超えることは難しいと言われている。量子コンピュータが夢のコンピュータであるという意味は、私から見れば実現しない夢ということだ。
以上の松田先生の見解は、
松田卓也(まつだたくや)
1943年生まれ。宇宙物理学者・理学博士。神戸大学名誉教授、 NPO法人あいんしゅたいん副理事長、同付置基礎科学研究所副所長、中之島科学研究所研究員、ジャパン・スケプティックス会長。
という、「学会の中の人」で権威もあるからこそ、
量子コンピューター学界の権威者たちが言うように、D-Wave社の量子コンピューターがインチキであると決めつけるわけにはいかない。
とか、
研究者の中にはD-Wave社の量子コンピューターは全く量子コンピューターではなくインチキであるとまで言う者もいる。
とか、
学界のお偉方の一人はD-Wave社の量子コンピューターなど、たとえ動いたとしてもその速度は携帯電話程度のものであろうとまで言っている。
とか、
将来批判されるのを恐れて、批判するのをやめた学者もいる。
とか、
D-Wave社とローズが反発される別の理由は、多分ローズが権威を認めない生意気な若造であるからであろう。
とか、
量子コンピューター学界の主流がD-Waveに批判的なのは、 1つには嫉妬があるであろう。
とか、
「真の量子コンピューター」をさておいて、「まがい物」の量子コンピューターが「量子」コンピューターと銘打って市場に現れ、それが成功を収めたら面白くないだろう。またそれが社会の注目を浴びたら、主流派の研究者に研究予算が下りなくなるかもしれない。彼らはこれを1番恐れていると思う。
と生々しい分析をされるのだと思う。
実際、松田先生が考察されるとおり、現状まったく馬鹿馬鹿しいことになっています。
この記事は「ホンモノの量子コンピュータ」と「ニセモノの量子コンピュータ」を相対化して、根本原理を解説というアプローチなんですが、実際、
「q-bit形式はかなり重要なので量子コンピュータを学ぶには必須。それに、ここでq-bitを理解していないがゆえに筆者は多大な間違いを犯す」「D-Waveには重大な問題点がある。それが実際に量子論的な原理で動いているかどうか全く分かっていない」「少なくともq-bit形式の量子コンピュータはアナログコンピュータではなく、デジタルコンピュータである」「量子ビットを使う奴じゃないと量子コンピューターとは呼びたくないな…何か別の呼び方を考えてくれないか?たしか量子アニーリングマシン、という言い方があったと思うが。」
などという、面倒くさいコメントが続々と寄せられ始めているところです。
当初、ロッキード、NASA、Googleが「ホンモノ」のq-bitじゃないほうの「ニセモノの量子コンピュータ」を採用しはじめている直近事例を出したのでさすがにそういうアレなコメントもないだろう、と思ってた筆者が甘かったです。
後々、この記事でも科学哲学の章で書くのですが、人間って権威が大好きです。
なんでかっていうと?
① 寄らば大樹の陰で、安全欲求が満たされるから
② 偉い人が言ってるので正しいと鵜呑みにしていれば自分の頭で考えずに済むので楽ちんだから
③ 自分の懐疑的姿勢は常に新しいものに向け、権威には向けない、というのはやっぱり寄らば大樹の陰で、多数派になるし、権威の見解はフィルター済みと信用できるのでやっぱり自分の頭で考えずに済むので楽ちんだ
こういったところです。
権威主義に一番はまりやすいのは、学校で先生の言うことを良く聞いてお勉強するお利口さんにおおいです。
こんな感じの人
統計屋、経済学修士。言語処理とSFが好き。Clojure/Incanterを用いた統計分析についての質問大歓迎です
(あんちべ! 俺がS式だ)@AntiBayesian
http://qiita.com/kenokabe/items/92189d65801
これ眺めててうわーすごいなー(棒読み)ってなったのでちゃんと科学哲学の人が何とかして欲しいと言う思いがあるし、解釈は人それぞれなので、せめて参考文献と箇所を挙げて欲しいなと思いました
間違ってると思うモノに対しては真正面から間違ってるんでこことここ直しましょうって言うべきだと思うけど、この圧倒的な物量本当に凄いと思うし、これに対し全て誠実な返答を差し上げるの至難の技なので、きちんとした識者に何とかして欲しい #他人任せ
まず「具体的な批判」が一切なされていない。
なのになぜか「間違ってると思うモノ」とされている。
そして「こことここ直しましょう」と理由もなく何故か上から目線で、
「真正面から間違ってるんでこことここ直しましょうって言うべきだと思うけど」という言い訳、
「圧倒的物量」「だけ」は「凄い」という感じで、
それをもって「誠実な返答」(誰も質問なんぞしておらない)が「至難の業」というできない言い訳があり、
「ちゃんと科学哲学の人」「きちんとした識者」に何とかして欲しいという「#他人任せ」となっている。
ご覧の通り、この言説に「知的な活動」知的考察はなにひとつもありません。
観察されるのは「思考の放棄のみ」で、あとそれを正当化する「言い訳」ですね。誰でも追認可能だと思います。
そしてなにより最悪なのが「権威」に依存することで「思考の放棄」を正当化している。
「参考文献と箇所を挙げて欲しいなと思いました」これはHTML文書であり、出来る限りリンクを埋め込むようにしているわけですが、
えっと、それとも、
「ちゃんとした科学哲学の人」「きちんとした識者」による本稿とまったく同一のテーマをカバーする著作を読みたいということでしょうか?
そんなもんはないですよ?
誰も書かないから書いたんです。
「ちゃんとした科学哲学の人」ってどんな人ですか?
「きちんとした識者」ってどんな人ですか?
そして筆者がそこから問答無用に除外されている論理的根拠は何ですか?
こういうのを「権威主義」と言い、
科学的な議論では絶対にしてはいけない作法です。
他人の言説や知的主張を否定、批判するにはそれ相応の知的誠実さが求められます。
権威主義の主張の仕方ってのはこの不誠実さに含まれます。
少なくとも自分の頭で考えたことを具体的に論理的に提示しないと、
おはなしになりません。
さらに、この人物のツイートですが、
18:03 - 2014年12月22日
になされました。
(あんちべ! 俺がS式だ)@AntiBayesian
http://qiita.com/kenokabe/items/92189d65801
これ眺めててうわーすごいなー(棒読み)ってなったのでちゃんと科学哲学の人が何とかして欲しいと言う思いがあるし、解釈は人それぞれなので、せめて参考文献と箇所を挙げて欲しいなと思いました
これは、
キータ
‏@Qiita
800ストック! | 量子コンピュータが超高速である原理と量子論とそれに至るまでの科学哲学史をゼロからわかりやすく解説 http://bit.ly/1zU7XJI
18:00 - 2014年12月22日
わずか3分前に当記事が800ストックに到達したQiita公式アカウントによるツイートがタイムラインに流れてきて、当記事を開いて、ざっとみた、
ツイートする時間があるので、正味せいぜい2分程度
この記事を眺めた上で、「何とかして欲しい」「間違ってると思うモノ」とか書いているわけです。
もちろんこの長い記事はたった2分では大筋の概要さえつかめるわけもなく、
要するにろくすっぽ内容を読んでもいないんですね。
読んでもいないのに、こういうことを言うというのは、
ただそう言いたいだけ、なにがなんでも貶めたいという意図があるということです。
こういうのは、主張ではなく、単なる侮辱であり誹謗中傷です。
学問に携わる人間としては、絶対にやってはいけません。
恥ずべきことなんですね。
繰り返します。
他人の言説や知的主張を否定、批判するにはそれ相応の知的誠実さが求められます。
「単なる感想だ」と逃げるようならば、
そういう人は真面目な議論の相手としないほうが良いでしょう。
時間の無駄です。そこになんら建設的議論は生まれません。
量子コンピュータというのはまさにカッティングエッジであり、状況はめまぐるしく変化します。
あとでまた歴史的経緯を詳しく解説しますが、量子コンピュータのqbit、量子ゲート方式を考案したデイヴィッド・ドイッチュの研究だって、最初は誰も相手にしなかったのです。
たまたま、ピーター・ショアが、この最初の方式で素因数分解に応用できることを発見し、それはすなわちRSA暗号の安全性の崩壊につながるので、世間を席巻したというだけのことです。
いつのまにか、「最初」に実装された量子ゲート方式が「ホンモノ」扱いされるようになり、いつのまにかそれが「主流派」となり「権威」となり、後発の実装が「インチキ」「まがい物」扱いされる。
そしてそれは、単なる権威への擦り寄りであり思考の放棄であり嫉妬という感情論であり予算確保の危惧という保身のポジショントークによるものになってしまっている。
まったくバカげた話です。
科学や学会というものは科学で学会なんだからフェアな論争の場が担保されている、と一般に思われがちですが、それは大きな間違いです。
すでにホンモノだニセモノだという全く意味のない権威まみれの宗教論争になっている研究者をさしおいて、実利を追い求める産業界のほうが先行しはじめています。
あと、多分、ホンモノかどうかわからない、と定義の問題化してずっと宗教論争している人らは、量子ゲート方式だけが高速になると理解しているつもりだが、実際のところなんでそれが高速なのか根本のところで全く理解しておらず、だから根本のところでまったく同じ理由で量子アニーリング方式が高速になる理由とか意味がわかってないんだろうな、と想像するものです。
量子ゲート方式と量子アニーリング方式そして日本のレーザーネットワーク方式も、すべて高速になる根本原理はまったく同じです。
「ホンモノ」の「量子ゲート方式」はアナログ・コンピュータです。
そして上位のレイヤーで「デジタル・コンピュータ」をエミュレートすることが可能です。
別に、qbit、量子ゲート方式だけが、ショアのアルゴリズムのように素因数分解に応用できるというわけではないし、古典的コンピュータ(デジタルコンピュータ)同様にチューリング完全になりうるわけではありません
ぶっちゃけ、そういう部分で筆者はイラッとしていたので、僭越ながらこういう記事を書いてみたという次第です。
松田先生は、
真の量子コンピュータは夢のコンピュータだと言われる。量子コンピュータが夢のコンピュータであるという意味は、私から見れば実現しない夢ということだ。
と結論づけておられますが、筆者も同じ見解で「ホンモノ」の「量子ゲート方式」の量子コンピュータは実用レベルでは実現しません。
まったく同じ根本原理でまったく同じ潜在能力をもつ別方式の実装がすでに実用化されはじめているんだから、実現不能な方式など無視しておけば良い、利用できる成果だけは利用させてもらう、というのはひとつの見識でしょう。
筆者は、q-bit方式を理解していないとはどこにも書いておらず、ただ
量子ゲートで演算を前提にq-bitでなんちゃらという「ホンモノ」の一般に難解でありがちな解説っていうのはアナログ・コンピュータの根本的な解説でもなんでもないし、そもそもその段階で「これがホンモノ」と洗脳されて、実際なぜ速いのか?という根本原理をわからず、わかったようなつもりなので「ニセモノ」だみたいな宗教論争になるのだろうと、と考えるし、この解説で同じ轍を踏むつもりはなく、その根本原理を説明するには根本のところまで探る必要があり根本の科学哲学からやるのが最善だろうという方針にすぎません。

デジタル・コンピュータとアナログ・コンピュータ

さて、上記ロッキード・マーチン社のくだりの引用部分には、量子コンピュータを知る上で見逃せない重要なポイントがあります。
プログラムの検証方法として、デジタル・コードをアナログ・コードに書き換えて、それをアナログ・コンピューターで走らせることをアレンは考えた。量子コンピューターは1種のアナログ・コンピューターである。
デジタル・コンピュータというのは、今みんなが使ってるそれです。スマホやPC、電卓、家電、自動車、普通に何にでも入ってるコンピュータのタイプです。
ムーアの法則のところで、今のシリコン・トランジスタ方式のコンピュータの速度が50年間、一貫して倍々ゲームだ、というのを説明しましたが、それより前の1950年代には、電子式アナログコンピュータというのが、開発されて実用化されていました。
アナログ計算機(analog/analogue computer/calculator)は、長さ、トルク(力)、電流・電圧などの物理量により実数値を表現し、そういった物理量を変換する物理装置により演算を表現して、問題を解くのに使われる計算機である。入力値と出力値にアナログ値を用いる。そのため計算結果は機器の精度による制限が技術的に加わる(これをダイナミックレンジという)。一般に計算が高速で、リアルタイム性を要求するシステムに適する。
アナログコンピュータのなかでも、電子部品(コンデンサ・コイル・抵抗器)で構築したものを電子式アナログコンピュータと言うみたいですね。
一般に計算が高速で、リアルタイム性を要求するシステムに適する。ということで、この電子式アナログコンピュータは、
フライ・バイ・ワイヤでも、
アナログコンピュータを使用した初期のものはアナログFBW、デジタルコンピュータを使用するものはデジタルFBWと呼ばれる。また電気信号を伝える電線を複数にして、多重系にすることにより冗長性を持たせている。
初期の戦闘機では、現行のデジタルでなく、アナログのほうのコンピュータが搭載されていました。戦闘機のシステムは当然リアルタイム性が要求されるので、アナログコンピュータの高速性が認められていたのでしょう。
ただし、アナログコンピュータは、なにかと使い勝手が悪い部分が多く、そのかわりになる自由度の高いデジタルコンピュータがすさまじい発展をし、速度ももろもろ合わせるとデジタルコンピュータのほうが有利になって、置き換えられてしまいました。
しかし、すでにみたように、デジタルコンピュータとしての現行のコンピュータが限界に来ている。
ロッキード・マーチン社の主任科学者のネッド・アレンは、当然そういうことを念頭において、デバッグ用途に限定したら、現行のデジタルより、以前使っていたアナログ方式のほうが高速に成りうるのではないか?と考えたのです。
そうすると、D-Waveという量子コンピュータを紹介されて、実際かなり高速だったので、10億円払って買った、ということでしょう。
ここで、なんとなく事の全体像が見えてきました。

電子式アナログコンピュータ
(昔から速かったけど、自由度低い)

デジタルコンピュータの登場
(自由度高い、十二分に速くなったのでアナログはお払い箱、でももう限界)

量子コンピュータとしてアナログコンピュータの復活
(デジタルの限界打ち破れるほどやっぱり速かった、自由度低いのは課題)

アナログ・コンピュータは何故速い?

さてここで、問答です。
Q.現行のおなじみのデジタルコンピュータが速い理由とは?
A.「ムーアとか半導体業界の中の人たちがトランジスタを小型化したり集積したりして一生懸命に研究開発したおかげで、彼らの努力の成果の結晶として年々倍々ゲームで性能あがってきたんだよね。」
そうですね。
Q.*この新しい量子コンピュータなるものにも通じる、一般に計算が高速で、リアルタイム性を要求するシステムに適するので初期のフライ・バイ・ワイヤに搭載されていたほどの計算能力をもつアナログコンピュータの速度の理由とは?
ロッキードの技術者が現行のコンピュータを諦めるほどに期待したアナログコンピュータなるものの速度の源泉とは?*
A.「・・・・・・・・」
このアナログコンピュータの計算能力のとんでもないポテンシャルの高さはそもそもいったいどこからやって来たのか?
この問いの答えがわかれば、量子コンピュータという代物が何故高速なのか?わかるはずです。

アナログ・コンピュータの本質的な正体を探る

この手の謎は、定義などを見てもよくわからないのが常なのですが、とりあえずもう一度、「アナログ・コンピュータ」の定義を見てみると、
アナログ計算機(analog/analogue computer/calculator)は、長さ、トルク(力)、電流・電圧などの物理量により実数値を表現し、そういった物理量を変換する物理装置により演算を表現して、問題を解くのに使われる計算機である。
大辞林:アナログコンピューター
数値データを電圧・抵抗・回転角などの物理量に置き換えて演算を行う計算機。この原理の最も簡単なものに計算尺があるが,ふつうは電気的量を用いるものをいう。計量型計算機。
アナログ・コンピュータは「スパゲティ・コンピュータ」という別名もあるようです。
量子コンピュータ!=並列コンピュータ 404 Blog Not Found
将来はとにかく、現段階では量子コンピュータは「スパゲッティ・コンピューター」の変種、と考えてもいい。ここでいうスパゲッティ・コンピュータというのは「スパゲッティ・コード」とは関係なく、O(1)でsortを実現する「コンピュータ」のこと。
ある数列をソートしたい場合、まずスパゲッティを各数に対応する長さに切りそろえ、それを手でまとめて「えいや!」とテーブルに立てる。あとはそこから一番長いスパゲッティを順繰りに抜けばいい。実際のところ切りそろえと「抜き出し」がO(n)なのだが、ソートそのものは「えいや!」のところで完了している。かなり昔のScientific Americanのコラム(多分Gardnerだと思うのだけど….いや、Dewdneyでした)に載っていた「コンピューター」だ。
この手の「物理計算機」は、例えば「ハイウェイの最適ルート問題」などに実際に使われているそうだ。各都市を最短距離で結ぶルートを出すには、地図を書いたアクリル板を用意して、各都市に対応する点に棒を立て、さらにアクリル版でそれにふたをする。そしてそれを石けん液にドボンと浸けて引っぱり出すと、石けん膜が最適ルートというわけだ。
計算尺は、機械式アナログ計算機です。
計算尺(けいさんじゃく)とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具である。棒状や円盤状のものがある。
ほとんどのものが乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算用に用いられる。加減算を行えるものは非常に稀である。計算尺は結果をイメージとして示すものであり、得られる値は概数である。
特定の目的の計算に特化した計算尺も数多く作られている。航空エンジニア向けの航空機の燃料計算から家電セールスマン向けの電球の寿命計算、写真撮影用の計算尺式露出計、操縦士・航空士が航法計算に用いる「フライトコンピュータ(カリキュレーター)」など、さまざまな分野で特化型の計算尺が作られ、現在も様々な計算尺が製造されている。
1970年代頃まで理工学系設計計算や測量などの用途に利用されていたが関数電卓の登場で市場がなくなり、1980年頃には多くのメーカーで生産が中止された。

計算尺は興味をそそる不思議な存在でした
最近は計算尺を見る機会はほとんどありません。若い人にとっては、すでに「見たり触ったりしたこともない存在」になっていることでしょう。
私は子供の頃、叔父が持っていた小さな少し変わった「ものさし」を計算尺だと教えられて、何故「ものさし」で計算が出来るのか不思議で仕方ありませんでした。
動かしてみても特に何も起こりません。どう役に立つのかサッパリ分からないものでしたが、それでも何となく精巧に出来たハイレベルの品物だというイメージを持ちました。
たしかに、一体なぜ「ものさし」で乗除算および三角関数、対数、平方根、立方根などの計算が出来てしまうのでしょうか?
なぜ、スパゲッティを各数に対応する長さに切りそろえ、それを手でまとめて「えいや!」とテーブルに立てる、とソートができてしまうのでしょうか?
なぜ、地図を書いたアクリル板を用意して、各都市に対応する点に棒を立て、さらにアクリル版でそれにふたをする、それを石けん液にドボンと浸けて引っぱり出すと、石けん膜が各都市を最短距離で結ぶ最適ルートになるのでしょうか??
 
よくよく見ると、上の例での「計算速度」は「一瞬」です。正確には、手でものさしの目盛りをあわせる時間、スパゲティを立てる時間、石鹸膜が変化する時間と、たしかにボトルネックはあるようですが、計算自体は瞬時に終わっているようです。
一体全体なにものが複雑な計算を一瞬でしてくれているのか??

計算とは何か?

そろそろ「計算」「計算」って言われているうちに、読者自身も、
「ちょっとまてよ、計算ってそもそも何のことだっけ?」
と思い始めているはずです。
はい、そこ重要。
そもそも論として、量子コンピュータの
コンピュータ=計算機
とは、
コンピュート(=計算)する機械
のことです。
計算とは一体なんぞや?ここはっきりさせておこう。
小学校1年レベルのかんたんな計算を例にとりましょうか。
次の式を見てください。

1+1=

次に、スマホやPCの電卓にこの式を入力して、あなたの手元のコンピュータに実際に計算させてください。
こたえは?

2

になりましたよね?
今、

1+1  

という計算を実際にコンピュータにさせたわけですが、これは一体ぜんたい何をやったんでしょうかね?
もちろん、計算したんですが、その「計算」という行為の意味を考えているのです。
じゃあ、いったんご破算にしましょう。計算しなかったことにする。時間を巻き戻すでもなんでもよいです。とにかくリセットしましょう。
次の式を見てください。

1+1=

ただし、見るだけで、手元のスマホの電卓などのコンピュータで計算してはいけません。
この計算の結果は、もちろん
2
になるのですが、あなたの手元のコンピュータは、計算していないので、その答えを知りません。
では、あなたの手元コンピュータが計算結果を知らないから、この2という答えは消えてなくなるのでしょうか?
そうではない、あなたの手元のコンピュータが1+1=を計算しようとしまいと、その計算結果が2になるというのは「最初から決まっていること」ですよね?
「数学的な事実」と言っても良いでしょう。

1+1=2

というのは数学的な事実だ。
あなたの手元のコンピュータがそれを計算しようとしまいが、あるいはそもそも手元にコンピュータなんてなくても、まったく関係ない。

1+1=2

というのは、数学の論理であって、揺るぐことはありません。数学的事実です。
では、次の問題を見てください。

15129×395723=

そして、計算機・コンピュータを使わずに答えを教えてください。
答えは、数学的事実として「最初から決まっていること」です。
無理ですか?無理でしょうね。まあ、筆者も無理です。
こたえは、Googleで計算したら得られます。
  1. 数学の問題をキーボードなどを経由してマシンに入力する
  2. マシンとして計算し、結果をスクリーンなどに表示する
ここで、最初の「数学の問題」っていうのは、実は問題でもなんでもなくて、計算なんぞするまでもなく数学的事実としては「最初から決まっていること」なんですね。
数学的事実を、勝手に「これはムズい!」「問題だ!」とする人間様の都合でわざわざキーボードで物理的に変換してスクリーンの物質世界に展開している、と言い換えても良い。
計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開することです。
そして、
コンピュータとは、数学世界の数学的事実を物質世界に変換・転換する特別なマシンです。
実際、コンピュータっていうのは、数学世界と物質世界という2つの世界の境界を橋渡しする特殊なマシンなんですね。
あと、ついでに付け加えておくと、「暗算」する、あなたの脳も数学世界と物質世界という2つの世界の境界を橋渡しする特殊なマシンなんですよ。

科学史と科学哲学のはなし

「計算」の意味を考えるときに、「数学世界と物質世界」とか言い始めました。
そして、この記事は量子コンピュータについての記事で、量子論は絶対に避けては通れないし、ここわからないと、量子コンピュータについてわかったことにはならないのは当たり前ですね。実際、量子論をゼロからわかりやすく解説とタイトルに書いてしまっています。
量子論に触れる際には、科学哲学の素養がないとかなり辛いところがあります。
科学哲学は、物理学をやる上で背骨になるようなもので、一流の研究者は例外なくこの辺の素養があると断言しても良いでしょう。小学校で掛け算を習うと同時に、最低限の素養として九九を習うのと同じだと思う。もちろんプロの研究者でも、どの業界でもそうでしょうが人材はピンキリであり、ピンは極少数派です。
念の為ですが筆者はプロの研究者ではないし、読者も研究者になる必要はないわけですが、量子コンピュータの原理を知るためには、そもそもの「計算」の意味、「数学世界と物質世界」の関係、それを研究する物理学、量子論の理解が不可欠となります。その理解の土台となるのが科学哲学です。
「まあまあ、そこまではいいじゃないか、長くなるんだし」と誤魔化しません。
筆者は個人的にこれまで、すっとばすこともまずまず可能、といった感じで科学を学び、そういう解説にばかり数多く触れてきましたが、ろくなことはなかったです。断言しますが、ほとんどの理系の学生、研究者はこの辺全部すっとばしたままで惰性で研究しています。
この記事では、急がばまわれで、ちゃんとやる、というか徹底的にやります。かなり長いです。
量子コンピュータの原理を心底理解する、ということは、量子論のことをふくめ、この世界の成り立ちの真相をかなり深いレベルで理解することに直結するし、それはおそらく、ほとんどの読者の世界観(この宇宙の捉え方)の大幅な変更を迫ることになるでしょう。
世界観の大幅な変更を迫るからこそ、あらかじめその下敷きとなる科学哲学が不可欠です。
ただし、科学「哲学」であって、科学ではない、賛否両論がある哲学的な話題、解釈論(解釈の仕方)の領域までかなり大胆に踏み込む、つまり、反証不能な解説を含む事を予告しておきます。実際そういう喧々囂々もろもろまで全部含めて「量子論」なんですよ。

量子論を知るためには、常勝の思想=「プラトン哲学」の思想を知れ

プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。
「西洋哲学の歴史」どころか、現代科学に至るまで一貫して脈々とプラトン哲学の思想があります。プラトンはヨーロッパ哲学最大のビックネームです。
プラトン哲学の思想とは、科学史を振り返ると常勝の思想です。
プラトンの思想を理解するためには、ちょっと遡ってまずその師匠のソクラテスの思想を知る必要が有るでしょう。
コンピュータにしても計算にしても、我々の日常で馴染みの深い事柄だから、よくわかっている、というのは単なる思い込みです。
たとえば、我々は地面の上で暮らしているわけで、地面というのは、我々の日常で馴染みの深い事柄です。
われわれ人類は馴染みが深く「とても良く知っているよ!」となった結果、
地球平面説という宇宙論を固めました。

地球平面説(ちきゅうへいめんせつ)とは地球の形状が平面状・円盤状であるという過去の宇宙論。古代の多くの文化で地球平面説がとられており、そのなかには古典期に入るまでのギリシア、ヘレニズム期に入るまでの青銅器時代~鉄器時代の近東、グプタ朝期に入るまでのインド、17世紀に入るまでの中国がある。地球平面説は典型的にはアメリカ先住民の文化でも受容されており、逆さにした鉢のような形状の天蓋がかぶさった平面状の大地という宇宙論は科学以前の社会では一般的である。
地球球体説というパラダイムはピュタゴラス(紀元前6世紀)によって生み出されてギリシア天文学において発展したが、ソクラテス以前の哲学者はほとんどが地球平面説を維持していた。紀元前330年頃にアリストテレスが経験的見地から地球球体説を採用し、それ以降ヘレニズム時代以降まで地球球体説が徐々に広がり始めた。
こういう「地球平面説」が「地球球体説」に取って代わられるまで、疑われることなく、信じて疑われなかったという歴史的事実から得られる教訓はとても大きくて、
「日常的に馴染みの深い自分自身の足元のことすら何もわかっていないけど、知っていると思い込んでいる」
「どうも人間というものは、知らないことにすら気が付いていないことが普通であるようだ、無知に無自覚すぎる」
ということですね。
これは、そこに名前がある古代ギリシアのソクラテスという哲学者
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による言葉
「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」
「無知の知」のことです。 
それにしても、この「地球球体説」というとんでもないパラダイムを大昔にいち早く提唱した先見の明に優れている「ピュタゴラス」とはいったいどんな人でしょうか?
ピタゴラス
ピタゴラス(希:Πυθαγόρας[1]、英:Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた。
学説
ピタゴラスは、物事の根源、即ち「アルケーは数である」と考えた。例えば、男は3、女は2、その和5が結婚を象徴する、といった具合にである[2]。
ピタゴラス学派、ピタゴラス教団と呼ばれる独自の哲学学派は、哲学界における様々な定理を見出した(そのほとんどは、現在で言う数学のものである)。有名なピタゴラスの定理も、実は本人によるものではなく、この学派によるものである。この学派は五芒星をシンボルマークとしていた。
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「物事の根源は数である」とするピタゴラスの学派、教団の信条ですが、これはその後、延々と現代まで受け継がれており、物理学の主要な転換点の原動力になっているように観察されます。
ピタゴラス学派は、「地球球体説」を提唱したこと、「物事の根源は数である」という信条で明らかですが、感覚や目の前の光景にまったく束縛されず、世界を抽象的に捉える思想です。
彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。
とありますが、プラトンは、「無知の知」のソクラテスの弟子であり、「地球球体説」をはじめて提示したピタゴラス学派の正当な後継者と言えるでしょう。

プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Platon、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[2]。
哲学
イデア論
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。
なるほど
「思いなし」と「知識」の区別
ここ重要ですね。地球平面説みたいな
「ああ地面?よく知ってるよ!平面だよね!?」
という無知の知への自戒がない単なる思い込みと、理性的な知識を区別する。
数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、
数学・幾何学や問答を通して近接することができる
ここ重要ですね。常識に囚われず論理的に地球球体説をいち早く打ち出したピタゴラス派の影響です。「万物の根源は数である」という教義を継承しています。
その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」
イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。
そういうのを統合した抽象的な概念が「イデア」ということですね。
『超越的なもの』『普遍的なもの』があらかじめ人間に先立って存在するという思想で、これをプラトンは「イデア」と呼びました。
すでに日本語になっている「アイデア」の語源ですね。「アイデアが浮かぶ」と言います。誰が最初にこう言ったのか?おそらく明治維新の文明開化の頃、西洋の知識体系をまるごと和訳していた賢者、たとえば福沢諭吉とかあの系統の人らだと思いますが、言葉の意味にかなり忠実な表現です。「イデア」=「アイデア」とは考えるのではなく、頭の外にある、人間に先立って存在する超越的なものなので、ポンと浮かんでくるものだ、ということです。
実はイデアというのは、すでに語った数学世界の「数学的事実」と同じことです。
って知っていますよね?こんな形をした図形です。
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円は数学的な物体で、中心からの距離が等しい点が集まった曲線と数学的にちゃんと定義できます。
この定義が正しい証拠に、コンパスという道具をつかって、紙の上にぐさっと針をさし、ぐるりと回すともう一方の鉛筆が描いた曲線は円となります。小学校で誰でも習った数学的な操作です。
でも、それは本当に円になっていますか?数学的な定義を忠実に再現したのでだいたい円になってるけど、なんかぶれたり、紙にシワが寄ってイビツな円になった記憶はあると思います。
いくら完璧にやったつもりでも、ルーペで拡大すると、ガタガタになっているはずです。じゃあ、この上に表示している円はどうだ?コンピュータで書かれた図形だから完璧だろう!?
いや、コンピュータのディスプレイには解像度というものがあります。Ratinaディスプレイであろうとなんであろうと、どこかでガタガタになっています。
じゃあそもそも曲線だから、無理なのか、まっすぐな線、直線ならばガタガタにならないだろう?
直線でも無理です。そもそも線というのは、太さが無い点の集まりですね。
中心からの距離が等しい点が集まった曲線って、もしその曲線、線の太さがあったら、その線の太さの分だけ、中心からの距離がずれてきます。正確に厳密に少しの誤差もなく中心からの距離が等しい点を見極めそこに点を書くこと自体が無理です。だって鉛筆で点をうった範囲がぼやっとしているでしょう。紙にちいさい穴を開けたところで、穴があるってことは、その穴の広さというのはゼロではないし、Ratinaディスプレイに点を表示させても、その素子の部分の大きさがあるわけです。何やろうと無理。
つまり、数学的な点、線、円、なんてこの物質世界にはひとつも存在していないのです。
しかし、頭では想像できるし、それに近づけよう近づけようとする「完璧なゴール」は設定されている。そういう完璧なゴールのことを数学的事実といい、プラトンは「イデア」と名前をつけたんですね。
円という数学的事実がある。これをイデア世界の円とでも呼ぶならば、紙の上に書いた円、上でディスプレイに表示している円というのは、不完全なものです。
こういう事情を
物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。
と、まあ難しい言葉で言えるわけです。
円周率というのも学校で習いました。円の直径と周囲の長さの比率です。
円周率というのは、多分知っていると思いますが、

3.14159265358979323846264338327950288

と、無限に桁数が続いており、数値を全部書き表すことはできません。そして計算もしきれません。ずっと数値が続くので、永遠に計算するしかない。
しかし、円周率っていうのは「正確に存在」します。
「円の直径と周囲の長さの比率」ですよね。
数値で書き表すことは無理なら、記号を決めてやれば良い。

π

という記号で円周率を表すことが数学の習わしになっています。
これは「正確な円周率」です。
こういう

π

っていう正確な数学的事実というのは、プラトンのいう「イデア」です。円という図形とかπという数学的事実はイデアですが、ぶっちゃけ他の

123456

という数字、数値だって数学的事実でプラトンのいう「イデア」です。
いやでも、それはりんごが1個2個というのと正確に対応している、と思うかもしれませんが、それはこういう数の概念を導入するときに、両親や学校の先生から、そう教わって「数」という概念を獲得したという経験からそう思うわけです。
現実の物質世界と正確に対応しているか?なんてのは、数という数学的事実とはなんの関係もないことです。
ここ重要、数が物質世界と1:1で対応しているなんて、意味のない考え方で、ここ陥りやすい罠なんですね。
その証拠に、

0

ゼロ、という「現代人ならば誰でも知っている数」は人類は長いこと知らなかったんですよ。
なぜならば、ゼロというのは「無い」という概念であり、現実には無い、からですね。
円という数学的事実、概念はある。
線という数学的事実、概念はある。
点という数学的事実、概念はある。
でもそんなものは、物質界にはひとつもない。
線の太さはゼロである。
点の大きさはゼロである。
ゼロという「無い」太さや大きさの数学的事実として存在している。
マイナスとか負の数はどうですか?
大きい数から小さい数を引く、と小学校で習います。
小学校では、数という抽象的な概念は、なるだけ物質世界の物体と対応させることで導入していくので、
りんご5個あって1個たべたら5−1=4だ、と習います。
大きい数から小さい数を引くのはできる。
でも3−7とか、物質世界と対応できないので、計算できない習う。
中学1年の数学ではじめて負の数を習います。
実際、ゼロもそうであったように、人類がマイナスの負の数の概念をはじめて知ったのはそんな大昔ではありません
負の数は中国では紀元前100年ごろの数学書『九章算術』で扱われていた。また、インドでは7世紀ごろには負の数が使われていたという。しかし、ヨーロッパでは負の数が数の一部として認められるのにはかなり時間がかかった。このことを示すものとしてよく話題に上るものは、17世紀の数学者であるパスカルの著書『パンセ』の中にある「私は0から4を引けば0であることのわからぬ人を知っている」という言葉である(ただし、パスカルが本当に負の数を理解していなかったのかはわからない)。
さて、ヨーロッパに負の数が紹介されたとき負の数は「借金」として紹介された。
借金もそうだし、温度、というのを数値化した世界では、普通にマイナスは出てきますね。
でも、現実、物質世界と対応するか、そういう数学的事実がある、とかない、とかいうのはまったく意味がありません。
すでに何度も強調しているように、数学的事実=イデア世界は、物質世界に関係なく存在しているからですね。
では、虚数という数学的事実=イデアはどうでしょう?
知らない人、忘れてしまった人のために復習すると、
虚数というのは、

?×?=1

というように、何かを二乗するとマイナス1になる数です。
中学校の数学(教科書)で「負の数の平方根は存在しない」という設定なので、「そんな数など存在しない!」ということになっているようです。
これまた人類も、結構最近までバリバリの数学者でさえもそう信じていました。
虚数・複素数
16世紀のイタリアの数学者、カルダーノが三次方程式の解の公式を公表したとき、二乗するとマイナスになる「奇妙な」数が登場してきた。これが虚数(きょすう)である。そんな数があるのかと思うかもしれない が、
x2+2=0
という二次方程式を解いてみればわかる。これを解くと
x=±2
になり、2乗するとマイナスになる数が存在することがわかる。
この数の存在は当時の数学者にとって、当時負の数すらなかなか認められなかった中で、さらに奇妙なものに見えたが、これを使わなければ(x-1)(x-2)(x-3)=0のように因数分解できるもの以外の三次方程式は解けなかった。また、この数を使えば二次方程式もすべて解くことができる。そのため虚数は数学者たちに「しぶしぶ」認められた。ここで「しぶしぶ」といったのはこの奇妙な数の命名に見られる。この数はデカルトによってnombre imaginaire(英語に直せばimaginary number)と名付けられた。つまり、「計算上存在する想像上の数」というわけである。
「奇妙」に思えるのは、無意識に数学的事実を現実の物質世界と対応させて考えているからであって、論理的には全部つじつまがあっています。
この数はデカルトによってnombre imaginaire(英語に直せばimaginary number)と名付けられた。つまり、「計算上存在する想像上の数」というわけである。
デカルトは科学哲学においてたいへん重要な人物なので、この記事で後から詳しく出てきますが、かなり頭の切れる数学者です。しかし彼でさえ、
「想像上の数」とか名前をつけてしまいました。
いやいや、そもそも、ゼロもマイナスも現実の物質とは対応するはずもない「想像上の数」であって、自然数である、1,2,3,4,5というのは、一番わかりやすく現実の物質と対応するというだけのことなのです。
円も線も点も、全部「想像上の数学的な物体」でしかなく、現実の物質世界には、そんなものはひとつも存在しません。
だから、虚数だけ、「虚」だの「想像上の数」(imaginary number)というのは、はちゃめちゃな作法で、まったく筋の通らない話です。
虚数は、現実の物質世界にあるのかな?ないのかな?と物質に対応させようとして、ないな、今までの数学の範囲からもはみ出す、だから想像上の数だ!とやらかしてしまうのは、プラトンのイデアの哲学を知っていれば、なんだかなーとわかるはずですが、ソクラテスの「無知の知」よろしく、わかったようになるのは簡単なので、哲学的素養もある当時の最高レベルの数学者でさえ、こんな調子なのです。
ソクラテスの「無知の知」とは、「何にも知らないことを知れ、謙虚になれ」っていうことよりもむしろ、「わかったような気になるのは簡単なのだから、肝に命じて警戒しろ!」ということです。
プラトンのイデアの哲学だって、字面だけ読んでいれば、
「なるほどね、了解了解、わかるよ」
と、なんとなくわかったつもりにはなるのは超簡単なのですが、
実際ほんとうにそれを自分の思考パターンとして活用できるか?というとかなり難しいのです。
何故ならば、「地球平面説」や「天動説」のように、足下のことなんて熟知しているという「無知の知」への警戒心がなく、なんでもわかっているつもりの常識に囚われているからですね。
「常識を疑え!」っていうのは、現代社会でもよく言われています。
「なるほどね、知ってる知ってる」と思いがちです。
「まあ、慣習をうちやぶれ、みたいなことでしょ?」と思いがちです。
しかしこの「常識を疑え!」という思想の源流は今みてきているような、ソクラテスの「無知の知」、プラトン哲学にあります。
デカルトが見事に虚数(imaginary number)と想像上の数と命名してやらかしたので、現代でも、理系教育を受けた人間、プロの研究者でさえ、
虚数?現実の物質世界には存在しないし、だから物理や工学の理論に虚数でてくるけど、あれは「方便」であって、「単なる便利な道具にすぎない」よね?
みたいなことを平気でいうひとがゴロゴロいます。
「数学は物理の道具にすぎない」という人がいたら、プラトン哲学の素養があるかどうかまず確認したほうがいいかもしれません。そうでなければ根本のところで話が通じない可能性が高いです。
しかし、彼らにも一応、哲学的思想の裏付けというのは用意されていて道具主義、そして論理実証主義と言います。
道具主義というのは、プラトン哲学の素養がなく、虚数が想像上の数だ、と素朴に感じる人々にとっては取っ付き易い主義です。
一種の実用性を重視するわりきり思想、面倒くさいことは考えないでおこうという思考の放棄ではありますが、こういう「なぜ量子コンピュータが高速なのか?」みたいな宇宙の本質を思考する際には、まったく役に立ちません。「考えるのは面倒だし、考えるのをやめて実用性を重視する」という思考法だからです。
道具主義、論理実証主義には一応歴史的な権威の裏付けみたいなものがある、と勘違いされています。その権威とは、ニュートンです。
これも後で書きますが、ニュートンが万有引力の法則を発表したときに、例にもれず結構な批判を呼びます。
何故ならば、誰も見たことがない2つの物体の間の引力なんていういうオカルト遠隔力を数学の方程式をもって抽象化してしまったからです。
これはとりもなおさず、「万物の根源は数である」とした、ピタゴラスの流れを組む、プラトン哲学のイデア化に他なりません。
だから、ニュートンは「数学は物理の道具にすぎない」なんて思ってるわけもなく、「どうやら宇宙は神によって幾何学(数学)でつくられているようだ」とバリバリのプラトン哲学派でした。
慣れ親しんでいるはずの重力を、オカルト遠隔力と数学の方程式にされてしまった。納得できない!
そういうプラトン哲学の素養にかける人々がニュートンを心理的に批判したのです。
仕方がないので、ニュートンは、その万有引力の法則を含む著書、プリンキピアに、「うるせーよ、説明せずとも、とにかく抽象化できるんだよ」という意味の「私は仮説を立てない」と追記します。
本心は、「どうやら宇宙は神によって幾何学(数学)的につくられているようだ」ということですが、科学論文だし、ややこしい神学論争になるわけで、非ピタゴラス・プラトン派に向けて「うるせーよ、これ以上説明しない」と書いたんですね。
繰り返しますが、ニュートンの思想は、今の道具主義の「数学は物理の道具にすぎない」とは真逆の立場のプラトン哲学派の思想です。
量子力学は、道具主義や論理実証主義によって発展してきたのですが、それは「当時はそうするしか前に進む方法がなかった」からです。
しかし、2015年現在、それももはや袋小路に入ってしまっていることも含めて、長くなるし、後でまた書きます。
 
さて、ゼロ、マイナス、円、線、点、それから虚数というのは現実の物質世界には存在しないし、1,2,3,4という自然数も、単に現実の物質世界に対比しやすいだけで、別のところにある数学的事実=イデアだと説明しました。
円周率も数学的事実ですが、正確に全部計算して数値を求めることはできないんですね。
計算不可能、ということです。
円周率は小数点以下、数字が無限に続くので、コンピュータでは計算しつくすことは絶対に不可能です。
さてこのピタゴラス・ソクラテス・プラトン系の思想としての凄さは、こういう地球球体説、地動説などなど、当時からの常識に囚われず、ブレイクスルーを起こしてきた常勝の思想であるということです。
  • 「万物の根源は数」のピタゴラス学派
  • 「無知の知」のソクラテス哲学
  • 物質界とは別にイデア世界が存在するというプラトン哲学
系統の1本の糸があるのです。
「無知の知」「地球球体説」「地動説」「万物の根源は数」「物質世界の他にイデア世界がある」
 
このピタゴラス→プラトン系の思想をまとめると、こうなります。
身近な日常としてよくわかってるつもりだろうが、そういう思い込みや固定観念に反して、数学世界というものが物質世界とは別に存在しており、あなたの感覚で捉えられる物質界なんかよりも、感覚で捉えられない抽象的な数学世界のほうがむしろ根源的で本質的なんですよ、という思想。
もちろん、プラトンはイデアを厳密に数学、論理に限定していたわけでなく、善とか神とか含めているわけですが、万物の根源は数であるというピタゴラス学派の系譜で、イデアを数学、論理と緊密に結びつけて論じていたのは間違いありません。
  
とりあえず、こういう「イデア世界の実在」が正しいという見解は、徹底的な心理的な反発を受けます。
なぜならば、地球平面説の教訓のように、
「日常的に馴染みの深い自分自身の足元のことすら何もわかっていないけど、知っていると思い込んでいる」
「どうも人間というものは、知らないことにすら気が付いていないことが普通であるようだ、無知に無自覚すぎる」
というソクラテス哲学の知見、無知の知への警戒心があまりないからですね。
古代いちはやく「地球球面説」(=正しいとあなたは知っている)
を打ち出したピタゴラス学派による
「万物の根源は数である」という主張が正しいはずがない、とする心理的根拠は、「日常的な経験からそんなはずはない」とする「地球平面説」派の心理的根拠とまったく同等なのです。
プラトンは、ソクラテスの弟子でありソクラテスに心酔しており(実際、ソクラテスが有名なのは、プラトンがソクラテス哲学の本を書いたからです)、「無知の知」を徹底的に叩きこまれていたからこそ、物質世界とは別のイデア世界の実在、みたいなことを大胆に宣言できたんですね。
今くどくどと話していることは、量子コンピュータの原理を理解するための世界観、宇宙観を獲得するための肝であり、その過程でまあ多分、普通に生じると予想される読者の心理的葛藤を歴史的にあらかじめ追体験してもらっているのです。

「プラトン師匠の哲学はオカルト。見えてるものを、ものがたりとして語ろうよ。」byアリストテレス

古代ギリシアのアテナイ(現在のアテネ)には、プラトンが創設したアカデメイア(現在のアカデミーの語源にもなっている)という学校があったんですが、そこにひとりの頭が切れる若者が入学してきました。
アリストテレスです。
アリストテレスは師匠のプラトンが、数学やイデアという物質世界から遊離した抽象的な世界を根本においたのはまったく異なり、いろんな物質がそれぞれもっている本来の性質によって世界は動いていくという「ものがたり」で世界を説明する哲学者になりました。
なんと師匠の哲学をガン無視したのです。まあ哲学者としては素晴らしいですね。権威にまったく左右されないこの姿勢は見事です。

もちろん公然と「プラトン師匠の哲学はオカルト。」なんて言った記録もないでしょうが、「イデア」のイの字もない、実質プラトン哲学のイデアを完全否定のまったく対極に位置する哲学です。
アリストテレスは世界ではじめて天動説も理論化してまとめあげました。
天動説(てんどうせつ)とは、地球は宇宙の中心にあり静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説で、コスモロジー(宇宙論)の1つの類型のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。現在では間違いとされる。

これは「アリストテレス的宇宙観」とも呼ばれるもので、その後、延々と継承されます。
アカデメイアの師匠のプラトンは、善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていました。体系化はしてませんが、ざっくり地動説派だと言ってよいでしょう。
  • プラトン 世界をイデア(数学)で説明する。地動説派
  • アリストテレス 世界をものがたりで説明する。天動説派
まあ、この思想の差はかなり本質的で、大きいです。
アリストテレスの思想、世界観は、
ピタゴラス・ソクラテス・プラトンの系統とまるで思想が違うのです。
師プラトンと弟子アリストテレス、
このたった一世代の師弟の思想の対決が、その後の人類の運命を決定づけます。
我々人類は、
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派
とわかれ、この瞬間から後世までおおよそ2000年以上の長きにわたり激しい対立を巻き起こします。
足下の地球に軸足を置いて、太陽のほうが回る、という説明もそうですが、アリストテレス的宇宙観は、あくまでも目の前の現実を重視して、とにかく、それぞれの物事に特有な性質のレッテル貼りをして、全体をうまく説明しようとする、そんな感じです。
まあ、後出しジャンケンで申し訳ないですが、だいたいそんな感じです。

アリストテレスの教え子アレキサンダー大王と学術世界都市アレクサンドリアの科学者たち

アリストテレスはマケドニア王国に王子アレクサンドロスの家庭教師をやってくれ、と招かれます。
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これが後のアレキサンダー大王で、当時としては最高の教育を受けたバリバリの知的エリートです。
アレキサンダー大王は、世界帝国構想(コスモポリタニズム)を持っており、知力、武勇、カリスマ性すべて兼ね備えていた武将でした。
東に東に王国を拡張していき、

帝国を築き上げます。
エジプトのファラオにも就任したということで、とんでもない大帝国です。
アリストテレスっていうのは、大帝国のアレキサンダー大王の家庭教師として彼の知的リソースであったわけで、「知の巨人」として祭り上げられます。
アリストテレス大先生の言う事ならば間違いない!
権力の裏打ちがある権威主義で圧倒的な政治パワーが味方したのはまず間違いありません。
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派
アリストテレス的宇宙観の圧倒的な優勢!
アレキサンダー大王がアリストテレスを家庭教師につけたときに一緒に学んだご学友にプトレマイオスという人がおり、後にアレキサンダー大王の側近の武将となり、アレキサンダー大王の死後、彼は帝国を分割統治するエジプトのファラオになりました。プトレマイオス朝といって、ちなみに最後のファラオはクレオパトラです。
プトレマイオス朝の首都はアレキサンダー大王が漁港を遠征の駐屯地としていたアレクサンドリアで、そこに世界都市を作りました。

世界の七不思議にもなっている、全高は約134mで建造当時は地球上で最も高い人工物、大理石でできていた
アレクサンドリアの大灯台
アレクサンドリアは「世界の結び目」と称され、「アレクサンドリアにないのは雪だけ」と言われるほどまでに繁栄していました。
プトレマイオスもアレキサンダー同様にアリストテレスから学んだ知的エリートで学問の重要性を理解していたので、ムセイオン(ミュージアムの語源)という一大学術センターを作ります。ムセイオンには当時世界最大のアレクサンドリアの大図書館を併設していました。
アレクサンドリアの大図書館にはなんと70万冊の蔵書がありました。これは、現代の中堅都市の市立図書館や大学図書館に匹敵する規模です。このすべてが学術書であることや、そもそも古代において書物なんてものはごくごく数が限られていた、というより現代の感覚じゃほぼ存在しないに等しい(今みたいに印刷された本が誰でも本屋で安価に手に入れられる時代じゃない)ことを考えれば、驚くべき知の集積です。
どうやってこんな膨大な書籍を蔵書できたのか?
アレクサンドリアの大図書館には「略奪文庫」という異名があります。
「書物を持ってアレクサンドリアに入った者は、原本を図書館に寄託し、その代わりに写本を受け取るように」と命令が下るほどに、世界中のあらゆる書物をこの図書館に徹底的に収集、もしくは強制的に徴収して組織的に写本、ギリシア語に翻訳することで膨大な学術文献を蔵書していたのです。
エジプトはパピルスという紙を作る本家本元なので、筆記媒体には事欠きませんでした。
情報メディアというのは重要で、パピルス以降、現代に通じる紙が発明された中国の後漢にしろ、それが伝播したイスラム社会(イスラーム黄金時代)にしろ、グーテンベルグの活版印刷にしろ、メディアの革新は情報共有の量とスピードのレベルを変えるので、情報革命となり、飛躍的な文化、技術の進化をもたらします。現代でいえば、もちろんこの記事の本論であるコンピュータとインターネットです。
この頃、アレクサンドリアのムセイオンに集う学者には、日本の算数、数学で習う幾何学=ユークリッド幾何学ユークリッド や、理科の浮力の原理で習うアルキメデスという数学者、科学者がいました。
彼らは「紀元前」の人なので、そういう古代の学問をそのまま現代の科学の義務教育で習う、というのは驚くべきことです。いかに当時アレクサンドリアで科学技術が発展したのか、という証左です。
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アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης、紀元前287年 - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。彼の生涯は全容を掴めていないが、古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。彼は革新的な機械設計にも秀で、シージ・エンジン[1]や彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られる[2][3]。
一般には、アルキメデスは史上まれな偉大なる古代の数学者という評価を受けている[4][5]。級数を用いて放物線の面積を求める取り尽くし法[6]、円周率の近似値計算[7]、彼の名で「アルキメデスの螺旋」とも呼ばれる代数螺旋の定義[8]、回転面(en)の体積の求め方や、大数の記数法も考案している[9]。
アルキメディアン・スクリュー
アルキメディアン・スクリューは効率的な揚水に威力を発揮する。
工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」[26] (en)の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で[27]、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。ウィトルウィウスは、この機構はバビロンの空中庭園を灌漑するためにも使われたと伝える[28][29][30]。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。
アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思いつかないという人もおり、実際に中国でねじ構造を独自に機械として使用することはできなかった。「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。[31]
アルキメデスの鉤爪[編集]
アルキメデスの鉤爪(en)とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組「Superweapons of the Ancient World」でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した[32][33]。
アルキメデスは海岸に複数の鏡を並べて放物面反射器(en)として太陽光線を集め、シラクサを攻撃する洋上の船に火災を起こしたという説がある。
結論
「古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。」「一般にはアルキメデスは史上まれな偉大なる古代の数学者という評価を受けている」というか、科学史においても別格過ぎて(しかも紀元前)、ただの万能の超能力者。
このように、すでに「紀元前」つまり今から2000年以上前の段階で、人類はこのレベルにまで到達していた、というのは一般にあんまり知られていないことです。
しかし、その後、かなりの紆余曲折があります。
イエス・キリストが生まれた、とされる年が西暦1年(その頃はまだ0の概念がないので1年からはじまる、日本でも昔は赤ちゃんは今の満0歳から始まるでなく数え年の1歳からカウントしていた、あと今でも建物の地上階のことを1階と言う、ヨーロッパでは0階と言う)で、キリスト教がじわじわ普及しはじめるのですが、そこを基準に約400年後の西暦400年ごろには、キリスト教はヨーロッパで圧倒的な力を持っていました。すでに権力の中枢に食い込んでいたのです。
宗教っていうのはすぐに権力構造化するし、往往に排他的で、異教徒をすぐ弾圧します。キリスト教は例外ではありません。
非キリスト教の学校だということで、長いこと続いていたプラトンのアカデメイアも強制閉鎖されました。
プトレマイオス朝が古代ローマ帝国に吸収された後も、しばらくアレクサンドリアのムセイオンと大図書館は庇護されますが、そのキリスト教が権力基盤となった西暦400-500年頃に、キリスト教徒によって破壊されてしまいます。
このアレクサンドリアの大図書館の破壊は、2009年に映画で描かれました。
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YOUTUBE 映画『アレクサンドリア』予告編


4世紀エジプト、アレクサンドリアには世界中から学問を求める人々が集まっていた。
キリスト教が定着し異教の排斥が行なわれ始めた時代の、女性天文学者ヒュパティアの学問に殉じた半生をアレクサンドリアを舞台に描く。
天動説に疑問を感じ、何らかの地動説を肯定できる理由を模索し続けた彼女は、弟子のオレステスや奴隷のダオスに愛慕を受けるが、それを拒み研究に没頭してゆく。その一方でキリスト教徒は、自らの宗教の絶対性を民衆に訴え、古来の神々を愚弄する。ヒュパティアの父テオンらはこれに憤り、剣を抜いて応戦するも退けられ、クリスチャンである皇帝は異教徒の一方的な罪を宣告する。
アレクサンドリアの大図書館は異教の魔窟として破壊され、異教徒には改宗か出国しか道は残されなかった。その中で改宗を拒み、青年たちに学問を教え続けるヒュパティアは、都の人々から魔女とみなされる。
ヒュパティアはアレクサンドリアの実在の天文学者で、この映画は実話です。
ヒュパティア(Ὑπατία, Hypatia、370年?- 415年3月)は、ローマ帝国アエギュプトゥスの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者である。ハイパティアともヒパティアとも日本では呼ばれる。キリスト教徒により異教徒として惨殺された。
テオン(著名な数学者と哲学者であった)の娘であり、ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。
彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。
数学と哲学の教えを、新プラトン主義の創始者プロティノス(205年- 270年頃)と新プラトン主義のシリアでの分派の創設者ランバリクス(250年- 330年頃)という2人の新プラトン主義者から受けた。
新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。
それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのである。これは、後にヒュパティアの運命を大きく変える。
391年、テオドシウスはテオフィロス(アレクサンドリアのキリスト教司教)の求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みがなされた。
だが、412年、アレクサンドリアの総司教の職権が、強硬派のキュリロス(英語読みはサイリル)へと継承された。この後に、新たな異教徒の迫害および破壊活動が起きた。 そしてキリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の違法で強制的な追放がなされ、緊張はその頂点に達する中、ヒュパティアの虐殺事件が起こる。
ヒュパティアの無惨な死は多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、中長期的には古代の学問の中心地であったアレクサンドリアの凋落を招く一因になる。
これらの事件により、ピタゴラスの誕生から続いてきたギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉する。劇的な虐殺の詳細と共に、博識で美しい女性哲学者としてのヒュパティアの伝説は、後世多数の作家(例えばチャールズ・キングズリー/Charles Kingsley)の『ヒュパティア 古い相貌の新たなる論敵』(1852年)など)の文学作品を生み出した。
この西暦400-500年頃におこったキリスト教徒によるアレクサンドリアの図書館の破壊や科学者ヒュパティアの虐殺といった叡智の冒涜と蹂躙は、その後、純粋キリスト教社会となったヨーロッパでの学問、科学、文化の停滞を象徴的に予言します。
この後どのくらいの期間ヨーロッパで学問が停滞するか?というと、西暦1500年ごろからはじまるルネサンスまで、なんと1000年間も停滞します。
この学問・文化の停滞期を西洋史では、現代からの近代と古代の中間の時代という意味で「中世(middle age)」という名前で区分し、この時代を自戒を込めて暗黒時代とも呼んでいます。

西欧の暗黒時代とイスラーム黄金時代からルネサンスまで

西欧社会が暗黒時代に突入するのを尻目に発展したのがイスラーム社会(イスラーム黄金時代)でした。
アラビアンナイトのあの時代です。
イスラーム社会がラッキーだったのは、中国人の捕虜に紙職人がいたことです。中国の後漢では、現代に通じる筆記用の紙を発明しており、この技術を持った職人を獲得したのです。
この素晴らしい紙という新メディアを大量生産すべく、国内に製紙工場の建設を急がせます。紙はイスラーム社会にあっという間に浸透します。紙の情報革命です。
それと同時に、「学者のインクは殉教者の血よりも尊い」というイスラームの思想により、かつてのアレクサンドリアと同じように、学者が集い、ギリシア・アレクサンドリア・中国・インドなど世界中の文献を収集します。
この中にはもちろんアレクサンドリアの図書館からの膨大な書物が含まれていました。
ギリシア語、中国語その他もろもろの世界中の言語で書かれた書籍は、今度は豊富な紙のメディアにすべてアラビア語へと組織的に翻訳され膨大な知識を蓄積しはじめます。
西欧で衰退したギリシア・アレクサンドリアの哲学・科学は、ギリシア語からアラビア語に翻訳されることで、受け継がれていくのです。
その結果、イスラームでは、イスラーム科学を発展させます。
イスラム科学(イスラムかがく)とは、8世紀から15世紀のイスラム世界において発達し、アラビア語によって叙述されていた科学の総称をさす。
イスラム帝国が形成されアラビア語が学問の言語として広い地域で使われるようになる以前の、エジプト、メソポタミアといった古代オリエントの文化や古典古代のギリシャ、ペルシア、インド、中国などで発展していた科学をもとに発展した。
法学・神学・語学・文学などのアラブ人伝来の「固有の学問」があったが、これに対し、上記のようにしてイスラム世界にもたらされた学問には哲学、論理学、幾何学、天文学、医学、錬金術などがあり、博物学、地誌学などとともに「外来の学問」と呼ばれた。ただし、外来の学問であっても正確な知識を求めることはハディースに照らしても神の意思を知るためのイスラムに相応しい行為とされ、「固有の学問」を修める学者が「外来の学問」を兼修することはまったく珍しいことではなかった。
ムスリムの治める地域において、ムスリムを中心とする人々が科学の研究へと進み始めたのは、8世紀に成立したアッバース朝のもとであった。アッバース朝ではカリフや宮廷のワズィールたちの保護と学術振興の意思に基づいて主にギリシャ語の翻訳が始まり、特に第7代カリフマアムーンが創設した研究施設バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)には多くの科学者が集まり、ギリシャ科学のアラビア語への翻訳が進められた。マアムーンに仕えた科学者のひとり、フワーリズミーは、インドの天文学や数学を取り入れて、代数学や数理天文学に関する著作を残した。
9世紀にはこの成果がアッバース朝の隅々にまで行き渡ったアラビア語による学問のネットワークに乗せられて知識人たちに広く受け入れられ、イスラム哲学の祖として知られるキンディーのように、同時に数学、天文学、医学、論理学、哲学など様々な学問に通じた学者が多くあらわれた。
10世紀から11世紀には、アッバース朝の政治的な衰退とは裏腹に、アラビア科学は空前の発展を遂げ、プトレマイオスの天文学を改良したバッターニー、数学・天文学に通じ光学に関する重要な著書を残したイブン・アル・ハイサム、哲学と医学の分野でヨーロッパに大きな影響を与えたイブン・スィーナーらが活躍したが、中世以降のヨーロッパにおいて科学が劇的に発展し、14世紀から15世紀にかけて、アラビア科学は廃れた。
アラビア数学 では、インドで発見されたという「0」という空の数字の概念、その延長で10進法の桁上がりの記数法(位取り記数法)を用いて代数学が発展します。今の世界の算用数字がアラビア数字と言われ得るのはイスラーム科学経由だからです。
イスラーム社会は栄華を極めますが、異教徒が繁栄して面白くないのが停滞していたキリスト教社会です。異教徒から聖地エルサレムを奪還する、と大義名分、難癖をつけて十字軍という旗印にイスラームへ遠征します。
もちろん、イスラーム教からキリスト教への強制改宗も目的に含まれていました。要するに純然たる侵略戦争をしかけて征服しようとしたんですね。かつてアレクサンドリアでやらかしたことをまたキリスト教徒がやろうとしたのです。
現代では一般的にキリスト教は穏当な宗教みたいなイメージが強いですが、歴史を紐解くとこういう侵略戦争や暴力をもって強制改宗みたいなことで勢力を広げてきたということは結構あります。かといってイスラム教が穏当というわけでもなく、開祖のムハンマドは宗教家と同時に軍人
ムハンマド(アラビア語: محمد‎[1]、Muḥammad[2]、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラーム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている[3]。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。
でエルサレムを攻略するまでバンバン戦争して強制改宗みたいなことをやらかしてイスラム教の勢力を拡大したので、どっちもどっちです。両方共「聖戦」ばっかりやってきたのです。今もやっていますけど。
さて十字軍は何度もイスラーム攻略を試みますが、まったく統率が取れなかったこと、国力の基盤が違うよその国に遠征したって勝てるわけがないという理由で、なんともなりませんでした。
しかし、十字軍の暴徒がイスラームの図書館から「これはカネになる」と思い、戦利品として略奪してきた膨大な書物が、キリスト教社会に流入、広まり始めます。それはまさにキリスト教社会にとって、自分たちが住むヨーロッパにかつて存在していたが、キリスト教の異端として抹消されてしまっていたロストテクノロジーをさらに発展させたイスラームの国力の源泉となる科学技術力の結晶でした。
アラビア語で書かれた書物は今度はラテン語へと翻訳されはじめました。
かくして、古代のギリシア哲学・アレクサンドリアの科学は、ギリシア語→アラビア語→ラテン語へと順次翻訳されて、壮大な迂回を経て、ふたたびヨーロッパに還流してきたのでした。
失われていた莫大な知識が世の中にものすごい勢いで広まりはじめます。
当然それはキリスト教が語る真理とは矛盾するわけで、純粋キリスト教社会の権威としての教会は、ふたたび異端の思想として、度重なる禁止令を出しますが、焼け石に水状態でどうにもなりません。
教会は窮地に陥ってしまいました。権力の中枢である教会はキリスト教の真理を弁護、擁護する必要に迫られます。キリスト教は、流入してきた圧倒的な知識に対抗して、なんとか理論武装する必要があるのです。
このキリスト教最大のピンチの局面に登場した救世主が、トマス・アクィナス という神学者です。
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それまでのキリスト教神学は単に聖書に基づいた神秘主義的なものにすぎませんでした。
しかし、トマス・アクィナスは、十字軍が持ち帰ったイスラーム経由のアリストテレス哲学を勉強していました。
アリストテレスの哲学(宇宙観)は、「ものがたり」で世界を説明してくれるので、既存の神秘主義的キリスト教神学とは相性が良かったので、アリストテレス哲学を利用してトマス・アクィナスは「神の存在証明」を試みます。
その結果、彼は、神学、哲学、倫理学、自然学と多岐にわたり、中世人にとっての知のあらゆる領域をカバーする壮大かつ精緻な神学体系を理論構築することに成功します。
この集大成となるのがアクィナスの『神学大全』という本です。アリストテレス哲学(宇宙観)に基づく『神学大全』は中世の純粋キリスト教社会の正当性を保障する、理論的基盤となりました。
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派
アリストテレス哲学(宇宙観)派の優勢!
しかしここで安心して、イスラーム社会から流入した膨大な新しい知識パワーをあなどってはいけません。
ほどなくして、この新しい知識と理論武装されたキリスト教神学の軋轢をさらに決定づける人類最強のとんでもないテクノロジーが登場します。
ドイツに、ヨハネス・グーテンベルクという金属加工職人がいました。彼がイスラーム社会から流入した新しい知識の影響を受けたのはまず間違いありません。グーテンベルグは自身の金属加工技術を応用した斬新かつ実用的な印刷技術を秘密裏に開発します。
グーテンベルグの活版印刷技術です。
ここで好都合だったのは、ラテン語のアルファベットというのはたかだか26文字しかないことでした。それまで活字を並べた組版による印刷技術自体は、中国にもありました。しかし象形文字である漢字というのは、膨大な数があるので、まったく実用性に欠け、中国の技術が伝わったイスラームでも恐ろしく手間のかかる手作業による写しであり、いくら媒体が筆記用の紙という新規テクノロジーのメディアであっても写本効率は著しく悪かったのです。
もはや手作業でない超効率的なグーテンベルグの活版印刷技術という超テクノロジーを手にした人類は、史上初めて「本の大量生産」という事が可能になり、その結果、飛躍的な情報量と情報伝達スピードを獲得します。
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1568年に描かれた印刷所の様子。一時間に240枚を印刷することができた。
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人類史上かつてない規模の情報革命が巻き起こったのです。
 
1455年にグーテンベルクによる「グーテンベルク聖書」が出版されてから、およそ半世紀の間に、ヨーロッパ各地の都市(ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ネーデルラントからスウェーデン、スペイン、ポルトガル、コンスタンティノープルなどまで)に活版印刷術が伝わり、約4万版が刊行されたという。
当時、聖書というのはめちゃくちゃ高価で家一件の値段より高かったのです。ごく一部の特権階級の人しか読めなかった聖書は、迅速・安価に大量生産され、誰もが読めるようになってしまいました。
民衆の間には、会員制の組合図書館、都市図書館が開設されました。
イスラム社会から継承されていたギリシア・アレクサンドリアの哲学・科学、イスラーム科学、そして文化も活版印刷による本の大量生産により、またたく間に広まります。
結果、この情報革命が、中世という暗黒時代を終わらす引き金となります。
権威化し腐敗しまくっている教会にブチ切れていたマルティン・ルターという神学教授の主張が、一般人も読みやすいドイツ語で印刷され、世間に広まります。その結果、宗教改革が巻き起こります。その結果キリスト教でカトリックから分裂したのが、プロテスタントですね。
さらに、この宗教改革がきっかけに、中世ヨーロッパ人はカトリックの価値観の束縛から自由になりはじめ、
「おいおいGOD、GOD言ってないでもっと人生を自由に楽しもうぜ!人間って素晴らしいよな!?」
いう人間讃歌の思想が広まりはじめることになります。
オリンピックの宣伝文句にもなっているCelebrate_Humanityってやつです。『ジョジョの奇妙な冒険』の作品テーマでもある人間賛歌です。
人間賛歌の思想はそのまま、イスラームから流入してきた新しい知識と文化、つまりかつてこのヨーロッパで栄えていたが、失われていた古代ギリシア・ローマ時代の文化や芸術を復興させよう!とする運動に繋がり、一大社会現象となっていきます。
ルネサンスです。
ルネサンスは西洋史にとどまらず、その後の人類すべての方向性を決定づけるような大事件でした。
イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地なので、街のそこらじゅうに古代の遺物がそのまま残っており、彫刻家、建築家らは多くを学ぶことができました。   
この結果、イタリア・フィレンツェでは、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロといった絵画、建築、彫刻など多方面で秀でたルネサンスの天才が同時期にバンバン登場します。
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『ダヴィデ像』、1504年
アカデミア美術館(フィレンツェ)
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『モナ・リザ』、1503年 - 1505年/1507年、ルーヴル美術館
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Design for a flying machine ダ・ヴィンチ 
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『アレクサンドリアの聖カタリナ』(1507年) ナショナル・ギャラリー所蔵 レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダと白鳥』のレダのポーズを取り入れている
そして彼ら天才のパトロンとして資金援助しバックアップしていたのが、イタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭した大富豪でありトスカーナ公国の君主にもなったメディチ家です。メディチ家は、フィレンツェの実質的な支配者であり、ルネサンスの文化を育てたフィクサーと言っていいでしょう。
メディチ家は芸術のみならす思想面でも素晴らしい仕事をしました。
なんとあの常勝思想のプラトンのアカデメイアの精神を受け継ぐ
プラトン・アカデミーを主催したのでした。
プラトン・アカデミー(Accademica Platonica)はルネサンス期にフィレンツェ・メディチ家の周囲に集まった人文主義者らによる私的なサークルをいう。大学のようなものではなく、フィチーノの友人たちの集まり、と言ってもよい。
メディチ家当主のコジモ(1389年-1464年)は、古代ギリシア哲学、特にプラトンの思想に強い関心を持っていた。
1439年のフィレンツェ公会議の際に東ローマ帝国の代表団の一人としてやってきた哲学者プレトンが行ったプラトン講義をきっかけに、フィレンツェではプラトン哲学への関心が高まっていたのである。
コジモは侍医の子であるフィチーノに語学の才能があるのを見抜き、1462年頃からフィレンツェ郊外カレッジ(Careggi)にあるメディチ家別荘の近くに別荘を与え、プラトンのラテン語翻訳に従事させた。フィチーノはプラトン全集やヘルメス文書などの翻訳により、名声を博した。そしてカレッジの別荘ではプラトンに心酔し、古代のアカデメイアに憧れる人文主義者らの会合が開かれるようになった。
メディチ家当主のコジモ(1389年-1464年)
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なかなかのキレ者ですねー。
伊達や酔狂で大富豪の当主に収まっているわけではないようです。
彼がプラトンのイデア思想に強い関心を示したり、当時の人文主義者のように心酔して会合が開かれるように、ここには「何か本質的なもの」があるわけです。
すでにイデアの説明で長々と「円」「直線」「点」、「円周率」、数のはなしもしましたが、そういうことです。
このプラトン・アカデミーには、レオナルド・ダ・ヴィンチも出入りしていたと言われており、
「権威に頼る人は知性または精神の力を捨てて、むしろ記憶の力に頼っている」
「経験は誤ることなく、実験は偽ることがない。ただ我々の判断が誤ることがあるだけだ」
「数学的科学によって証明されないところに確実性はない」
という彼の言葉から、プラトン哲学の片鱗が伺えます。
プラトン・アカデミーができたのは、もちろんすでにグーテンベルグの活版印刷という超テクノロジーからの情報革命によるルネサンスなの時代ですから、本が大量生産できるようになっていました。メディチ家コジモが翻訳させたプラトンの常勝哲学は、あっという間にヨーロッパ社会へ広がります。
このように、かつて純粋キリスト教社会の猛攻により、完全に断絶していたかにみえた、常勝のプラトン哲学は、ルネサンスで見事な復活を遂げます。
こういうルネサンスで復興されたプラトン哲学のことを特に、
ネオプラトニズム(新プラトン主義)と呼びます。
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派
プラトン哲学(宇宙観)派が復活!
ただしプラトン派はまだまだ少数派でした。この時代のキリスト教社会の権力基盤の正当性を担保する神学は、今やアリストテレス哲学(宇宙観)によってガチガチに理論武装されているわけで、プラトン哲学(宇宙観)系の理論を提唱しようものならば、命取りにもなりかねません。 
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派はここに来てガチンコ勝負の様相を呈してきました。
ちなみにプラトンの常勝哲学にピンとくることがなく、ソクラテスの無知の知の自省もなく、感覚的に受け入れやすい純粋キリスト教社会のアリストテレス哲学の世界観のほうがしっくりとくる、という人にとっては、今後、量子論の話をしても厳しいかもしれません。
念の為ですが「量子論」というのは、「論」というのがついているとおり、2015年現時点で完全に解明され合意が完了している学問ではありません。量子コンピュータという技術も例外ではなく、「量子力学をわかったつもり」や「量子コンピュータをわかったつもり」の人はプロの研究者をふくめてゴロゴロいます。
科学哲学の素養は物理をやる背骨となるものですが、理系でもプラトン哲学に基づいて思考するという体系的訓練が徹底される教育があるわけでもなく、そこは各自勝手にやっており、勝手にわかってると勘違いしている人はゴロゴロいます。
この記事ではすでに
量子コンピュータの原理を心底理解する、ということは、量子論のことをふくめ、この世界の成り立ちの真相をかなり深いレベルで理解することに直結するし、それはおそらく、ほとんどの読者の世界観(この宇宙の捉え方)の大幅な変更を迫ることになるでしょう。
と、予告したとおり、かなり踏み込んで解説するつもりなので、どうせ「そんな馬鹿なことがあるはずはない!」と言われて、こちらがウンザリするのが目に見えているので前もってにこうやって説明しているのです。よろしいでしょうか?
これから量子論を目指してどんどん本題に入りますが、その過程で紹介する、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインと言った物理学のブレイクスルーを起こしたスターによる仕事は、すべて例外なく、プラトンの常勝哲学が語る、物質世界の数学世界への抽象化がなされており、すべて例外なく、感覚的に受け入れがたいとする、アリストテレス哲学の世界観を堅持する人らに面倒くさい批判を浴びてきました。
そしてこれは、現代物理学の世界でも例外ではありません。
「はいはい量子力学ね、わかってますよ」と言いながら、いわば現代のアリストテレス哲学の世界観に溺れてしまう人は、プロの研究者でも大勢いるようで、彼らとプラトン哲学の世界観で切り開こうとする人らの対立的議論があります。

アンチ・アリストテレス「宇宙は数学の言葉で書かれた書物である」キリスト教神学へ反逆した科学の父 ガリレオ・ガリレイ

メディチ家のコジモ一世(1519年6月11日 - 1574年4月21日)(プラトン・アカデミーのコジモとは別人)が初代大公であったトスカーナ公国のピサという都市に、フィレンツェ生まれのヴィンチェンツォ・ガリレイという音楽家がいました。彼は、音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法をとっていました。
西暦1564年、ガリレオという息子を授かるのですが、ルネサンス最後の巨匠、ミケランジェロの死ぬ3日前のことでした。これが象徴するように、当時、トスカーナ大公国はルネサンスを終えて長い凋落の時代に入ろうとしていました。
ヴィンチェンツィオは息子ガリレオを医者にしようと考えました。 
父の画策で、ガリレオはピサ大学に合格し、医学部の教養課程に入学します。
そんなある日、ガリレオの人生を決定づける出来事が起こります。
トスカーナ宮廷をガリレオが訪ねたとき、フィレンツェ出身の宮廷付き数学者オスティリオ・リッチが教授している現場にたまたま出くわしたのです。
リッチはフィレンツェ・ルネサンスの息吹をもろに吹きこまれた数学者で、失われていたギリシア・アレクサンドリアの数学・科学の知識を習得していました。
リッチは好奇心旺盛な青年ガリレオに自分の知識を教えます。
なんと1800年以上も前の大昔、かつてこのヨーロッパの地には、ユークリッドの幾何学やアルキメデスの研究というものが存在し、それは現在ガリレオがピサ大学で学ぶアリストテレス系一色に染まった学問よりもはるかに進んでいる!
このロストテクノロジーっぷりにガリレオは衝撃を受けます。自分が学ぶべきは1800年前の学問であり、今の大学で教わる学問ではない!!
もはや大学には何も期待できないと悟ったガリレオはさっさとピサ大学を退学してしまい、その後、独学でアルキメデスの数学を研究しはじめます。
その後、ガリレオはコネで、ピサ大学の数学教授に就任します。
この頃、ガリレオが夢中になっていたのは、運動の力学の問題でした。
もちろんガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの学説や教会が支持する説などに従うつもりは毛頭ありませんでした。
ガリレオの父が、音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を取っていたように、そして尊敬してやまない古代ギリシア・アレクサンドリアの数学者アルキメデスがそうしていたように、自分も物理学で数学的な記述・分析を重視する手法をとろうとしました。
ガリレオは物理学者である前に筋金入りの数学者なのです。
古代哲学者アリストテレスは、大きな石は小さな石よりも速く落下する、つまり重いものは軽いものより速く落ちると考えていましたが、ガリレオはこの考えに反発します。
ガリレオの有名な逸話に「ピサの斜塔の実験」というものがあります。
ピサの斜塔のてっぺんから重さの違う二つの重りを落として、どちらが先に接地するかを実験する。
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その後、ガリレオの力学研究の成果が実を結び始めます。
物体の落下運動について、数式であらわせることを発見したのです。
ある物体が落下運動によって通過する距離が時間の二乗に比例している!
ガリレオは、物体の落下運動という自然の現象を数式で表現できることを結論づけました。
ガリレオは自然を数学で記述することに成功したのです。
自分のやり方は間違っていなかった。
ガリレオは自書『天文対話』で以下のように語っています。
哲学は、宇宙というこの壮大な書物のなかに書かれている。
この書物は、いつもわれわれの目のまえに開かれている。
しかし、まずそのことばを学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することができない。
それは数学のことばで書かれているのであって、その文字は、3角形、円、その他の幾何学的図形である。
これらなしには、人間はその1語たりとも理解することができない。
これらなしには、人は暗い迷宮のなかをさまようばかりである。
ガリレオは冒頭で「哲学」って書いていますが、これは現代で言う「自然科学」のことです。
少なくともルネサンスの頃、西欧ではガリレオ以前に「自然科学」なんてものは存在してなかったのですから。
ガリレオが尊敬する古代ギリシア・アレクサンドリアの超能力者みたいなアルキメデスは別格として、少なくとも、ルネサンス以降では、ガリレオが初めて力学法則を数学で書きました。
そしてその根本となるポリシーは
「宇宙は数学の言葉で書かれた書物である」
です。
これは今更言うまでもないでしょうが、
「万物の根源は数である」のピタゴラス派の教義であり、
「イデア」のプラトン哲学の思想です。
1604年の秋、ガリレオ40歳のとき世界を揺るがす出来事が起こります。
超新星(スーパーノヴァ)がへびつかい座に出現したのです。
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プラハに住む皇帝付き数学者であり天文学者のヨハネス・ケプラーが発見したので、「ケプラーの超新星」とも呼ばれています。
もちろん当時の天文学者たちは驚天動地の大騒ぎです。
アリストテレスの世界観では月よりも上の世界は不変なので、
「星が新しくできる」ことなど絶対にありえないからです。
この超新星が月よりも上の宇宙での現象なのか、あるいは月よりも下の気象的な現象なのか?それこそがキリスト教の理論武装の根幹となるアリストテレス的世界観にとっては何よりも重要で、論争となりますが、ガリレオはこの超新星を月よりも上の世界のものだと主張しました。
 
当時のアリストテレス的世界観は徐々に揺ぎはじめます。
そもそもガリレオはアリストテレスの世界観なんてものはこれっぽっちも信用しておらず、プラトン哲学派であったし、この超新星を利用してアリストテレス的世界観、つまり「天動説」を論破してプラトン的世界観の「地動説」のほうが正しいと証明してひっくり返してやろうと思っていました。
いよいよ、
プラトン哲学(宇宙観)派 vs アリストテレス哲学(宇宙観)派のガチンコ勝負がはじまるのです。
ガリレオは本格的に天文学に参入します。
当時、望遠鏡という新しいテクノロジーが開発されつつあり、ガリレオもこの開発競争に加わります。
もともとガリレオは尊敬するアルキメデス同様に実践家でした。
ピサの斜塔の逸話はそれを端的に表すものです。
ガリレオは天体観測のための望遠鏡開発にも才能を発揮します。
ガリレオは木星を望遠鏡で観測しました。
木星が4つの星を伴っていることに気づき、観測を続けると、その4つの星が、他の恒星とは違い木星の左右を行ったり来たりしているのが分かりました。それら4つの星が木星の周りを回っているのだと確信した。
これらの衛星は、ガリレオ衛星と呼ばれています。
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左からイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト
ガリレオは観測から得られた新発見を『星界の報告』という本にまとめて公表します。
世間の反応は様々でした。ガリレオに迅速に反応したのは、超新星を発見した例のケプラーで、ガリレオに最大限の賛美を送りました。ケプラーは地動説派であり、すでに自分の理論を固めつつあったのです。
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ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571年12月27日 - 1630年11月15日)は、ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。欧州補給機(ATV)2号機の名前に彼の名が採用されている。
プロテスタントであり、これは宗教的対立の高まっていた当時の神聖ローマ帝国において、ケプラーに苦難を強いる原因の一つとなった。ケプラーの家は貧しく学校に行くことのできる環境ではなかったものの、奨学金を得て、神学校に進学したのち、1587年、テュービンゲン大学に入学し数学を学んだ。1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった
ケプラーの自然哲学の中心は惑星論にある。ケプラーは数を宇宙の秩序の中心とする点や天体音楽論を唱える点で自然哲学におけるピュタゴラス的伝統の忠実な擁護者であった。その反面、コペルニクスやティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイも脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新した。
ケプラーの真の功績は、数学的な裏付けを持った物理モデルを提出するという方法の先駆者だった所にある。彼のモデルそのものは誤っていたが、結果的にこれはガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンを経て古典物理学の成立へとつながっていく。
ケプラーは数学者です。
というか、ガリレオ、ケプラー、ニュートンもうこの辺全員ゴリゴリの数学者です。
ケプラーは数を宇宙の秩序の中心とする点や天体音楽論を唱える点で自然哲学におけるピュタゴラス的伝統の忠実な擁護者であった。
はい、出ましたね。「数を宇宙の秩序の中心とする」ピタゴラス学派。
占星術師という顔をもつ
というのも数で全部説明できると信じて疑わないピタゴラス「教団」系統の信者であるということにすぎません。
ケプラーみたいにガリレオへ賛美を惜しまない人は当時こういう変わり者というか極少数派にすぎず、大半の反応としては、
おいおい、聖書の全否定か?
アリストテレス大先生の宇宙観の否定?正気?
みたいなことでした。
この反応にガリレオのイラツキは想像できないことはありません。
ガリレオはその後も貪欲に観測を続けます。土星、金星。
望遠鏡という新たなテクノロジーを手にしたこの時期は、まさに天体観測というのは宝箱に等しかったのでしょう。
金星が満ち欠けをしている事実を観測します。
これは、惑星が自分では発光しておらず、太陽の周りを回っていることであると考えられるので、地動説の確証となりました。
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ガリレオは地動説を疑いようのない真理だと考えるに至ったのです。
このように着実に業績をあげていくガリレオの名声は高まりますが、自分が正しいと確信しているだけに、アリストテレス的宇宙観を堅持するために反論してくる者には、前からイラついていたこともあり、片っ端から徹底的にボコボコに論破していました。
ガリレオ無双です。
実際正しいし、揺るぎない証拠が満載だし、実際間違ってるのは相手なので、常に論争で圧勝するわけです。
ガリレオに私怨をもつ敵はどんどん増えていきます。
ときに宗教というのは戦争をも引き起こしますから、自分の信条を完全否定された宗教に熱心な人ほど怒るわけです。
ガリレオをよく思っていないロリーニという神父が、
「ガリレオのいう地動説っていうのは聖書に反していると思います!」
とローマの異端審問所にチクります。
 
最初は、穏便に済まされますが、ガリレオも頑固だし、自分が間違っていないと確信しているだけに、その後延々と自分の理論を主張し続けます。
裁判所の注意を聞かない!と宗教裁判がエスカレートしていき、最終的には、自宅軟禁処置みたいなことになります。
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文をひざまづいて読み上げることを強いられました。
ガリレオは、すべての役職は判決と同時に剥奪され『天文対話』は発禁処分となります。
 
もうこの時点で、ルネサンス期の学問の中心地としてのイタリアは完全終了したと言っても過言ではないでしょう。
イタリアにおいては自由な科学研究は不可能であることが内外に示され、科学の活動は北ヨーロッパやイギリスに中心が移り、その後二度とイタリアに戻ってくることはありませんでした。
ガリレオの異端裁判の判決をもって、イタリアを中心としたルネサンスも完全に終わりを告げます。 
アレクサンドリアの数学者・哲学者・天文学者のヒュパティアへキリスト教がやったこと、大図書館を破壊したこと、そしてその結果、このルネサンスまで1000年間も西欧社会の文明、科学が停滞したことを思い出してください。
歴史は繰り返すのです。
ローマ教皇庁の対応
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[44]。
最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである[45]。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[注 9]。
ガリレオの死去350年後、1992年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が地動説に関する異端裁判の誤りを認め、ガリレオへ謝罪したのは、ピサの斜塔の頂上でした。
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られた。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
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最終真理へのブレイクスルー「我思う故に我あり」精神世界を発見した、すべてを疑う100%オリジナルの孤高の天才合理主義者 ルネ・デカルト

イタリアでガリレオが木星の衛星(ガリレオ衛星)を発見したとき、フランスのある名門校で、ガリレオの発見を讃える祝祭が催されていました。この学校はカトリック系でしたが、信仰と理性は調和するという考えで自然観察に熱心だったのです。
この学校のカリキュラムには哲学討論の授業があったのですが、そこで数学的な手法をガンガン駆使しながら相手を論破しまくっていた少年がいました。当時14歳のデカルトです。
学校の先輩には、後にメルセンヌ素数で有名になったメルセンヌもいました。
数学が得意な天才少年デカルトはこのときすでに学院で習う神学やそれをベースにしたもろもろの学問に強い疑念を抱いていました。彼にしてみれば論理が穴だらけなのは一目瞭然で、胡散臭さ満載だったのです。
 
ルネ・デカルト(仏: René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
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デカルトはその後大学に進み、速攻で法学・医学を修めて卒業した後、パリへ行きました。もちろんパリジェンヌを漁りにいくためです。
デカルトは知的かつ洒落モノで、しかも家柄は旧貴族で育ちもいい、裕福という死角がまったくない超ハイスペックな青年だったので、パリで全力を出そうと思ったのでしょう。パリでは、学友の数学者メルセンヌとも再開し、女遊び、数学と、隙のないリア充ぶりを発揮します。
しばらくして仲間との女遊びにも飽きてきたデカルトは賢者モードに移行します。仲間をぶっちぎって静かな郊外へ移り住み、大好きな数学研究に没頭していました。しかしまもなく頭の悪い仲間達がまたわっと押し寄せてきたので、何を思ったのか戦争に行くことを思い立ちました。
当時、例の宗教改革で分裂したキリスト教のカトリック派とプロテスタント派が民族対立や権力闘争とあいまって、また宗教戦争をやらかしていたのでした。三十年戦争です。
オランダで軍隊に入ります。オランダの都市ブレダに駐屯していたある秋の日、彼は掲示板に貼られた数学パズルに目を留めました。しかし残念なことにそれはオランダ語で書かれていたのでデカルト青年は読むことができず、たまたまそばで同じように数学パズルを熱心に見ていた少し年上のオランダ人に翻訳を頼みました。この人物は、イザーク・ベークマンといって、医者でありながら自然学者であり数学者でもあるという、まったくデカルトと互角に張り合うだけの知性をもっていました。インテリ同士、彼らはすぐに意気投合し親友になります。
ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていたり、地動説のコペルニクスの支持者でもありました。そして、デカルトはこのときすでに、数学を物理学に適用すべきであると気がついていましたが、ベーグマンも全く同じ戦略に到達していたのです。
 
その後、デカルトが従軍で移動する間も彼らは熱心に文通しており、音楽理論、落体の加速度、液体が容器に及ぼす圧力、そして幾何学と研究合戦をしていました。当初は七つ歳上のベークマンが教師役だったのですが、デカルトはたちまち追い抜いてしまいました。
その後、戦争にいったり、またパリに戻ったり、また静かなところに隠匿したり、と繰り返していくのですが、デカルト32歳の時にそろそろ自分の研究の成果をまとめて世間にアウトプットしようと本腰を入れて取り組み始めます。
『宇宙論』を出そうとしたその矢先、イタリアのガリレオが地動説の件で、ローマの宗教裁判で有罪を食らって干されていることを聞き及びます。
当然自分の『宇宙論』は地動説ベースの宇宙観であるので、これはやばい!と思ったデカルトはこの本のリリースを断念してしまいます。
このデカルトの『宇宙論』はかなり凄くて、
物体の基本的な運動は、直線運動であること、
動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、
一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)、
と、後にニュートンがプリンキピアで書くことになる力学の法則の根幹をカバーしてしまっています。
実際ニュートンは、デカルトの著作を研究していました。(ニュートンのほうがデカルトより1世代後)。
1633年ころの『世界論』の草稿においては、物体とは独立した空間を認めて「運動というのは、空間の中の、ある位置から別の位置への移動」と見なしていたが、その後デカルトは考え方を変えて真空という概念は認めなくなり、世界は粒子で満たされているとした[1]。
デカルトの渦動説は、天体を運動させているのは天体を囲んでいる物質(流体、エーテル)が天体を押しているからだとし、その物質は渦のように動いているとする。また、物体の落下については、水の渦の中に木片を置くとそれが渦の中心に引き込まれるが、言わばそれと同じ原理で、起きているエーテルの渦によって引き込まれていると説明した。
これはデカルトの渦動説と呼ばれており、空間中の媒質を通じて力が伝わるという近接作用をもって世界を説明しようとするものです。
ニュートンは、もちろんこのデカルトの考えを知っていましたが、同意できずに違うアプローチの万有引力の法則を発表することになります。こちらは遠隔作用で(当時の科学では、そして今でも近似理論としては)正しいので、以上のデカルトの考えは間違いとなってしまうのですが、実は量子力学まで考えると、むしろデカルトの世界観のほうが正しい、少なくともかなり近いのです。
特に、物質と空間を同一視し、この宇宙は分割可能な粒子で埋め尽くされている、そして物質・空間の差がない粒子のみで力学をぜんぶ説明しようとかいうのは、まあ通常の日常的感覚では想像もつかないわけで、いったいどういう瞑想をすればこんな突飛な発想が可能だったのか?よくわからないのですが、実際、現代物理学の場の量子論では、物質と空間は同一視されており、デカルトの主張するとおり、量子同士の近接作用で力が働く理由を説明します。
場の量子論では、力が働く、ということにとどまらず、物質に慣性の法則がある、質量が存在するという事実などもすべて粒子、そして粒子と同一視される空間の性質で説明していて、デカルトの「真空という概念は認めなくなり、世界は粒子で満たされているとした」とかいうのは、2013年、物理学でノーベル賞をとったヒッグス粒子の研究といったこのレベルの話の世界観に迫るものであるといえます。
しかしこんな現代物理学のトンデモパラダイムなんて、膨大な研究の末に知見が積み上がってようやく人類が到達したごくごく最近の世界観で、デカルトからしたらはるか遠い未来のことです。
あと、物体の落下=重力の件ですが、水の渦の中に木片を置くとそれが渦の中心に引き込まれるが、言わばそれと同じ原理で、起きているエーテルの渦によって引き込まれている、というのは、アインシュタイン方程式時空の歪みによる重力の説明のイメージだとも言えます。
つまり、デカルトの物理学への洞察は、次世代のニュートンの次のアインシュタインの相対性理論、その次の量子力学、その次の量子場の理論、とパラダイムを2つ、3つ、4つすっとばしながら、いきなりかなり正しいことを言ってのけている。ちょっと意味わかりませんね、天才すぎて。
真空が粒子で満たされているとか普通考えつきます?ガリレオがピサの斜塔から重さの違う鉄球落として同時に着地する、ほらみろ!とかいう時代に、何の材料もないのに、いきなりこういうこと言い出すっていうのが天才です。この人は後で述べる哲学者としての業績だけがクロースアップされがちだけども、物理学者としては、続くニュートンの力学の金字塔の影に隠れて、あるいは現代物理学の知見がない人らによる「ああデカルトさんやらかしちゃったなあ、ニュートンに敗北!」という感想から、かなり過小評価されているな、と思うわけです。
1637年、デカルト41歳のとき、『方法序説』という集大成的な本を出します。
なおこの本も、例のキリスト教の異教徒思想弾圧を警戒して、初版は偽名で出されています。『方法序説』の
第6部では、ガリレイの審問と地動説の否認という事件が、デカルトに自分の物理学上の意見の公表を躊躇させたと述べる。人間を自然の主人とするための生活にとって有用な知識に到達することは可能であり、それを隠すことはデカルトにも大罪と思われた。実験や観察は重要であり、公衆がそれから得る利益を互いに公開することが今後大切になるはずだと。しかし、ガリレオ事件で教訓を得たデカルトは、まだ発見されていない若干の真理を探究する時間を失わないために、反駁や論議を招くような自分の著書は生前に出版することを断念することにした。しかし自分が著作を用意していたことを知る人々に意図を誤解されないよう、1634年になって書かれた論考から慎重に選ばれた『屈折光学』『気象学』『幾何学』に『方法序説』を附して公表することに同意した、と述べる。
いかに思想弾圧を恐れながらも人生かけて真摯に研究しているのか?ガリレオもそうですが、頭が下がります。我々が謳歌している学問の自由、思想の自由というのは、こういう偉人の犠牲の上に、時代の教訓として獲得したものなのです。
デカルトは哲学者、物理学者である前に数学者であることを忘れてはいけません。
上記『幾何学』では、3次元空間座標系の概念が書かれています。
我々が住むこの宇宙が、3次元空間であり、数学の座標系で位置が決まる、ってはじめて言い出したんですね。デカルトは3Dの元祖です。
だから、こういう平面、空間の直交座標系のことをデカルト座標系と呼びます。
と、バシっと言い切れれば気持ちも良いのですが、忘れてはいけないのが、ガリレオ先生も大学時代に衝撃を受けて心酔したという、あの古代学術世界都市アレクサンドリアのムセイオン、大図書館に集うアルキメデスやユークリッドという例の古代文明超能力集団の存在です。
ユークリッド幾何学(義務教育で習う幾何学)のユークリッドは、その当時すでに直交座標系なんぞはすでに導入していたと思われ、デカルトもユークリッド幾何学は当然学んでいました。
『方法序説』は、何の「方法」かというと、もちろん自然科学、物理学のための方法です。序説、っていうのはその方法の導入過程もふくめざっくばらんに書いちゃいますよ、みたいなことですね。
実際、『方法序説』は学者向けの論文じゃなくて、ざっくばらんに書かれた一般向けのデカルトによるエッセイです。言語も当時の学者共通デフォルト・ランゲージのラテン語ではなくて母国語のフランス語で書かれていました。
まあ、往往にしてつっこみどころがないように留意した、公式性、正式性、正確性重視の四角張った文章よりも、自分の日常からの気付きや、なんでこう考えようと思い立ったのか?というものをざっくばらんに書いてくれたほうが、読者は筆者の思考の軌跡が生々しく追体験できて、かえって本質的で正確なところがわかってしまうものです。だから、『方法序説』これ一冊さえ読めばデカルト哲学の核心部分がもれなくわかってしまうと一般に高い評価がなされています。
もちろん、この私の記事もそういうざっくばらんのポリシーで書いてる(念の為ですがデカルト先生に肩を並べたいみたいな、おこがましいつもりはないですよ、単にこの形式が自分にとって書きやすいだけです)わけですが、こんなもん読んでも正確なところはわからないだろう、しょせん初心者向けだ、とか、寄り道が多い、みたいな事を言う人らがいます。アホだなあ、とは思いますが、まあ言わせておけば良い。そんなもんを求めるのならばいくらでもWebにわかりにくい正確な文章があるわけです。
『方法序説』というエッセイで、デカルトは、
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を懇切丁寧に教えてくれた恩師の方々には本当に感謝してます!!」
と自身のカトリック系名門校時代の教師たちにチクリというか、グサリとやります。学校で全課程もれなく修了してみたけど、そこで習った珍妙な学問なんぞにはなんの信頼も期待もできず(ガリレオと同じこと言ってる、唯一の違いはガリレオは反逆児で速攻で見切りをつけて退学したが、デカルトは従順な優等生タイプだったので全部修了したし、先生ありがとうございました、と表向きは礼を言う(笑))、だから全部捨て去って、パリで遊びほうけたし、戦争へも行ってみた、というようなことが書かれています。
そして、だいたい皆が寄ってたかって構築した学問っていうものがこの有り様で、まったく信用ならないんだから、自分ひとりの理性だけに忠実に全部自分ひとりでやったほうがマシでしょ?とぶちあげてしまいます。
まさに天才児童が、自分のレベルに追い付いていない世界の学問に悩み苦しみながら成長し、結局すべてがバカバカしくなり、すべてを捨て去り、女遊び、ギャンブル、戦争と、世俗に溺れたが、それでもなお真理の探求の炎は燃え盛り、最後についに悟りに到達した、という孤高の境地といったところでしょうか?
このデカルト少年の学院時代の
「ほんとおまえら誰も信用ならないな、純真な子供に嘘ばっかり教えやがって・・・」という学問的トラウマがデカルト哲学の根源にあります、
そして、デカルトが思想史において極めて特異なのは、この人がゼロから全部自分ひとりでやっちゃった、つまり完全にオリジナルだということです。
思想のスペックとしてはもちろん、ピタゴラス・ソクラテス・プラトンの系統に分類できますが、ぶっちゃけプラトンの影響でプラトン哲学を土台にして自分の哲学を構築したか?というと全く違います。
偉大なプラトンでさえ、師のソクラテスの「無知の知」を徹底的に叩きこまれ、ピタゴラス教団の「万物のアルケー(根源)は数である」という思想に影響されて「イデア」哲学を構築したわけですが、デカルトは自身の学院時代のトラウマや従軍時代に得た知見が原動力になり、思想的にはゼロからスタートしたのです。
もちろん、古代ギリシア哲学の素養はあったでしょう。しかしそこも含めて一旦チャラにして自身の哲学をスタートさせているのです。実際それゆえにデカルト哲学は常勝のプラトン哲学さえも突き抜けてしまいます。思想のブレイクスルーです。
どういうことか?見て行きましょう。
まず、デカルトは生粋の数学者であるので、数学的厳密性をもったアプローチで科学をやろうと思いました。
数学では、論理を進める土台として、公理というものを前提条件として用意します。
数学の公理系は、それ以前にはなんの前提条件もないので、ぶっちゃけ何でもやりたい放題です。
たとえば、ユークリッド幾何学の5番目の公理は、平行線公理といって、
 
「平面上には絶対に交わらない2本の線(平行線)を引くことができます。」
という公理を絶対前提条件とします。
これを厳密な論理で演繹していけば、
「三角形の内角の和は、180度である!」
という定理が導出されます。
根本の大前提となる公理系から、こうやってどんどん上位のレイヤーである定理という部品を揃えていく。
そして、今度はさらに上位のレイヤーでこの定理の部品を組み合わせていくと、それは厳密な「ユークリッドの幾何学」という数学理論が出来上がります。
もちろん、公理という大前提は、それ以前にはなんの前提もないやりたい放題のレイヤーであるので、
「平面上には交わらない2本の線(平行線)を引くことができる」とは「限らない」という立場をとり、平行線公理を排除してしまう幾何学体系つまり「非ユークリッド幾何学」という数学理論も構築可能なんですね。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学という2つの数学理論は、たった一個の公理を認めるか?認めないか?でその結果構築された2つの理論の景色はまるで違うものになってしまうわけで、いかに最初の公理をどう定めるのか?っていうのが超重要なポイントになってくるわけです。
デカルトはゴリゴリの数学者なので、こういうことを熟知していました。
「まず公理系を厳密に選定しないと話になんないな」というところがデカルトのスタート地点です。まさに自分の哲学を厳密にゼロからはじめたんですよ。
 
さて何を公理としよう?デカルトは考えます。
どうやったら公理を厳密に選定できるか?デカルトは考えます。
絶対確実な方法とは何か?
ここで少年時代からのトラウマの登場です。
「ほんとおまえら誰も信用ならないな、純真な子供に嘘ばっかり教えやがって・・・」
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を懇切丁寧に教えてくれた恩師の方々には本当に感謝してます!!」
とにもかくにも誰も、どんなものでも信用ならない、徹底的に疑うしか自分には方法は残されていない。疑う事こそが絶対確実な公理を選定する道だ。
こういうメソッドを方法的懐疑・積極的懐疑とデカルトは定義しました。
これは古くある懐疑主義の系統にあります。
しかし懐疑主義は意味合いが広いので、建設的な批判的思考(クリティカル・シンキング)とか、ただ単に疑ってオシマイ、どうせ何も信用できない、やる気を失った、とか、お前ら全員信用ならねー、敵だ!という妄想だって懐疑主義のひとつといえばそう言えてしまうので、デカルトはそういうのとは一緒にしてくれるな、自分の懐疑は、あくまで厳格な公理を選定するための積極的な目的がある斬新なメソッドとしての懐疑なのだ、という意味で方法的懐疑と定義しました。徹底的な方法的懐疑とは、公理を見つけ出す目的というデカルト哲学専用でそれ以外の応用はまったくないと考えたほうがいいかも知れません。
デカルトが徹底的に疑う手法とはおおよそこんな感じです。
「おいデカルト見ろよ、目の前に美しい女性がいるね!」
まて、騙されるな!そいつは悪霊の化身かもしれない。パリでは悪い女にさんざんひっかかったんだ。(認識の否定) 
「温かい暖炉だね?」
そんな暖炉など本当は存在していないかもね。幻覚だよ。(物質の存在の否定)
「今、俺達は暖炉の前で生きている。現実にこの世界に生きている!」
だからさ、暖炉だけじゃなくて、この世界まるごと夢か幻か、一体どうやって証明する?
マトリックス見たこと無いの?
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コンピュータのシミュレーションで、どうせ後頭部にプラグがあるんでしょ。(物質世界の否定)
「仮にマトリックスだとしても、現に暖炉が温かいと思っているのは本当だろ?」
しつこいな。だから、それも脳にそういう電気信号が送られただけなの。
君、本当にマトリックス見たの?
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、ぜんぶ脳への電気信号のインプットでシミュレートできちゃうの。(感覚の否定)
「そうじゃなくて、電気信号であれなんであれ、君の脳がそう感じたのは疑いようのない事実だろ?そういうことを言っているのさ。」
なるほどね。でもその脳自体がまるごと、マトリックスでシミュレートされた神経回路である可能性は否定できないなあ。
事実、今もうそういう神経レベルで再現したデジタル生物っているし。
OpenWormっていって、オープンソースなのでGitHubからダウンロードできるよ。
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そういうシミュレートされた神経回路で人間の脳を完璧に再現してやれば、その脳は「温かい」って感じることも当然できるだろ?
結局ぜーんぶ幻なんだよ。(内的感覚の否定)
「うー・・・じゃあマトリックスの外の世界ではどうだ?
コンピュータシミュレーションでないネイティブの世界を作ったのは神だろ?
君はまさか神を信じないとでも言うつもりか?!」
ごめん悪いけど宗教なんてものは作り事だろ?
誰かが決めたことは信用しない主義でね。
昔それでひどい目にあってトラウマがあるんだ。(宗教の否定)
「念の為だけど、1+1=2という数学的事実は信じるよな?
誰かが決めたことでもないし、夢でも幻でもないぜ?」
数学的事実?なんだそれ?そんなもん、もし自分が消えたら、一体だれがそれを論じるんだ?もし、人間まるごと消滅したら?
誰も考えない数学なんて意味ある?そんなもんは無いに等しいのさ!
あっはっは(プラトンのイデアの否定)
なんと、このキリスト教支配の時代にあって、論理的に宗教を全否定し、
マトリックスさえ太刀打ちできず、それにとどまらず、
超論理的であるプラトン哲学のイデアさえ全否定してしまいました。
常勝プラトン哲学がたったひとりの天才の哲学に論理的に論破された瞬間です。
これがデカルトの方法的懐疑というメソッドのスーパーパワーであり、思想史においてブレイクスルーを起こした様子です。
デカルト、君は何であろうと徹底的に疑うね?
まあね、それがこの方法的懐疑というスーパーメソッドさ。
いや、だから、君は疑うね?
ああ、疑うよ。
じゃあ今、君は疑っているんだね?
いいや!今、僕は疑っていない。
さっき「ああ、疑うよ。」って認めちゃったけど?
・・・確かに。疑っているという現象が今現実に起こっている、ことだけは認めざるを得ないみたいだ。
宗教でもマトリックスでもイデアも関係ないもんね?
関係ないな。自分が疑っているという現象自体は疑いようがない。
かくして、デカルトは、
「自分が疑っているという現象自体は疑いようがない。」
=「我思う、ゆえに我あり」
というのを、自分の哲学の「公理」として採用します。
デカルトは方法的懐疑を経て「考える我」の存在を超合理的に証明したのでした。
「考える我」方法的懐疑によって合理的に完全否定された「物質世界」とまったく切り離された存在です。
デカルトは、
「考える我」=公理
から
「精神世界」=定理
を導出します。
「精神世界」の存在の発見
デカルトは世界で初めて「物質世界」と「精神世界」を合理的に分離したのです。
デカルト以前では、「精神世界」はもちろん宗教による考察の対象でした。
しかしそれはあくまで「神」を前提とする神秘的な思索の範囲を越えるものではなく、合理的な学問、つまりデカルトのような天才少年の検証に耐えうる思考ではありませんでした。
「精神世界」を信じることを前提に語る宗教やスピリチャル論は理性の放棄ですが、「精神世界」を徹底的に疑う合理的手法による帰結として語るのでは別物です。
  • 宗教、スピリチャル論の「精神世界」 
    考えるな!感じろ!信じろ! 理性を抑制
  • デカルトの方法的懐疑の「精神世界」
    考えろ! 感じるな!疑え! 理性を発揮
また、プラトン哲学のイデア論では
「精神世界」は、「物質世界」の外にある「イデア世界」の中に区別されることなく含まれていました
言い換えると、
「考える我」は、円とか線とか点とか円周率のような数字とか虚数とか、そういう数学的実体と同じ「イデア世界」のなかに同居していました。
デカルトは、
①「物質世界」と「精神世界」を分離する
と同時に、
②「イデア世界」と「精神世界」を分離する。
という作業をしました。
あくまで、デカルト哲学の「定理」は「精神世界」ただひとつなので、そこから、上記の①と②の証明をしていったのですが、
②「イデア世界」と「精神世界」を分離する。
については少し説明が必要でしょう。
デカルトは、①「物質世界」と「精神世界」を分離することをした後、
「神の存在証明」に取り掛かります。
ぶっちゃけ、
「考える我」という公理
「精神世界」という定理
だけでは、なんというか、「ただそれだけ」で何の体系もなしません。
 
「平面上には絶対に交わらない2本の線(平行線)を引くことができます。」
という公理
「三角形の内角の和は、180度である!」
という定理
を出したら、今度はこの定理を利用して、いろいろ演繹していって
「ユークリッドの幾何学」という理論体系を構築しないと
なんの実用性もない宣言に終わってしまいます。
もともと理論構築する土台整備の目的で方法的懐疑をもって公理の選定したんですね。
デカルトのいう「神の存在証明」とは何のことはない、
プラトンのいう「イデア世界」の存在証明です。
プラトンの「イデア世界」は、
デカルト哲学の公理を模索するための方法的懐疑によって一旦、完全否定されてしまったわけですが、今や
「精神世界」という確固たる定理の基盤を獲得したので、今度はそこから演繹して理論構築していくのです。
デカルトが、「神の存在証明」をするときに考えたのは、こういう理屈です。
今や「精神世界」という疑いようのない正しい、確固たる定理がある。
でも「精神世界」って正しいけど、なんでそもそもこんなものが存在するのだろう?
「精神世界」ってのは存在する。ここ絶対間違いない。
方法的懐疑で徹底的に検証した。「考える我」という公理は間違いない。
「精神世界」の存在という定理は間違いない。
「精神世界」ってのは存在する、ってじゃあいったい「どこに」存在するんだ?
それにこの「考える我」っていうのは、「無限」やら「円」やら「点」やらいろいろ考えているわけだけど、この観念っていうのは、そもそもどっから来たの?
「考える我」は「無限」を考えきれるか?
ちょっと試してみよう。
「考える我」として「無限」がどんなものか想像してみるか・・・
・・・絶対に無理だな。
「考える我」は「無限」なんてものはイメージしきれない。
やってみてよくわかったが、「考える我」は「無限」の能力なんて備わっていない、「有限」な存在なんだ。
自分が有限な存在だなんて今更だ、よくわかってるじゃないか。
これは、デカルトのただの言葉遊びに過ぎないと思う人がいるかもしれません。
違います。このデカルトの思考の理路は論理的に正しいです。
計算とは何か?
それから、プラトン哲学でイデアを説明したときに、
円周率の話をしました。
計算とは数学世界の数学的事実を物質世界に変換・展開することです。
コンピュータとは、数学世界の数学的事実を物質世界に変換・転換する特別なマシンです。
実際、コンピュータっていうのは、数学世界と物質世界という2つの世界の境界を橋渡しする特殊なマシンなんですね。
あと、ついでに付け加えておくと、「暗算」する、あなたの脳も数学世界と物質世界という2つの世界の境界を橋渡しする特殊なマシンなんですよ。
.
円周率というのも学校で習いました。円の直径と周囲の長さの比率です。
円周率というのは、多分知っていると思いますが、

3.14159265358979323846264338327950288

と、無限に桁数が続いており、数値を全部書き表すことはできません。そして計算もしきれません。ずっと数値が続くので、永遠に計算するしかない。
しかし、円周率っていうのは「正確に存在」します。
「円の直径と周囲の長さの比率」ですよね。
数値で書き表すことは無理なら、記号を決めてやれば良い。

π

という記号で円周率を表すことが数学の習わしになっています。
これは「正確な円周率」です。
こういう

π

っていう正確な数学的事実というのは、プラトンのいう「イデア」です。
-
円周率
3.14159265358979323846264338327950288

は、無限に桁数が続いており、数値を全部書き表すことはできません。そして計算もしきれません。ずっと数値が続くので、永遠に計算するしかない。
円周率は計算不能です。
コンピュータは円周率を「すべて」計算できません。
暗算できるあなたの脳も数学世界と物質世界という2つの世界の境界を橋渡しする特殊なマシン、コンピュータです。
脳は、円の直径と周囲の長さの比率 π という概念は理解できても、円周率という無限に続く数字を計算し切る事は不可能です。円周率の桁は無限に続いており、これは数学的事実として厳然としてありますが、その無限に続く桁をすべてまるごと頭で想像するのは絶対に無理です。
つまり、世の中には円周率、無限といった計算不能の数学的事実がころがっており、それはけして我々人間の脳というコンピュータの中には収まっていないのです。計算不能なのだから。有限なリソースしかない物質に無限を展開するのは土台無理な話なのです。
デカルトはこういったことを考えていました。
「考える我」が有限ってことは、「精神世界」ってのも有限だ。
有限な「精神世界」には、どうがんばっても「無限」なんてものは収まりきらない。イメージしきれないんだから。
つまり「無限」というものは、「精神世界」の中には存在し得ないんだなあ。
おいおい、じゃあこの「無限」という代物はいったいどこから来たんだ?
「精神世界」単独で自己完結しているわけではなく、「精神世界」の外にまだ別の世界が広がっている!
「精神世界」の外に「別の世界」があってそこに「精神世界」が存在するのか?
「精神世界」とはまた別のところに「別の世界」があり、そこから「精神世界」が生まれてくるのか?
そこは言葉の問題に過ぎないかもしれないけど、
とにかく「精神世界」とは「別の世界」が存在する。
それは「精神世界」を生み出せるほど、無限も含むほど完璧な世界だ。
「無限」も「円」も「点」も全部そこに揃っている完璧な存在だ。
我々はその「完璧な存在」のことを何て呼ぶだろう?
この言葉も「精神世界」がいろいろ考える観念としてよく知っている!
「神」だ!
はい、神の存在証明おわり。
かくしてデカルトは神の存在証明に成功します。
繰り返しますが、ぶっちゃけこの抽象的観念を真理の実体と考えるのは、プラトン哲学の「イデア世界」の存在の説明の仕方とまったく同じです。
唯一違うのは、
  • プラトン哲学は、「精神世界」を「イデア世界」の中に含ませてごちゃまぜにしていたことにたいして、
  • デカルト哲学は、方法的懐疑により「考える我」という公理とし、「精神世界」という定理を出発点として、それとは別の「イデア世界」=「神の存在」を論理的に理論体系の一部として導出してしまったことです。
そして繰り返しますが、デカルトはこの作業をまったくのゼロから100%オリジナルの方法でやってしまいました。超合理的に。
①「物質世界」と「精神世界」を分離する
と同時に、
②「イデア世界」と「精神世界」を分離する。
さて、②「イデア世界」と「精神世界」を分離する。
っていうのは、無限だの有限だのイデアだのやる抽象的な思考で、デカルトみたいな天才にとっては大丈夫なんですが、一般の人らにとっては、なかなかついていけない思考です。
これは当時の哲学者にとっても同じで、デカルトが本質的にどういう作業をやったのか理解できない哲学者から批判を浴びます。
もちろん、デカルトが存在証明した「神」とは、プラトン哲学の「イデア世界」のことなので、キリスト教の「神」のことではありません。このことでも当時の社会では、異論はあったでしょう。
一方で、①「物質世界」と「精神世界」を分離する
っていうのは、かなりわかりやすいです。
デカルトの方法的懐疑による公理からの演繹というアクロバティックな理論展開の結論ではあるのですが、これはまあ、
  • 宗教、スピリチャル論の「精神世界」 
    考えるな!感じろ!信じろ! 理性を抑制
  • デカルトの方法的懐疑の「精神世界」
    考えろ! 感じるな!疑え! 理性を発揮
の違いだけであり、
素朴な感覚として目の前に広がる「物質世界」と、
素朴な感覚として認識する自分の「精神世界」の存在は、
どんな素朴な人だって存在自体はデカルト哲学と共有できるわけです。
だからこっちのほうは、
①「物質世界」と「精神世界」を分離する

デカルトによる、物質と精神の二元論として世の中に浸透します。
②「イデア世界」と「精神世界」を分離する。
のデカルト哲学の神≠キリスト教の神の部分は、当然同意できないし、理解もできないので、こっちは放置しておいて、
あくまで「神」=キリスト教の神として、
物質と精神の二元論ならば、何ら問題ありません。
デカルト哲学の全体としては①と②をあわせた、
「物質世界」「精神世界」「イデア世界」の3つの世界があります。
物質と精神とイデアの三元論なのです。
しかし、②は世間で理解されず無視されるし、
デカルト自身も悪く、「イデア世界」とプラトン哲学と結びけて論じることはなく、「神の存在証明」とか、これはもう当時のキリスト教社会の知識人の限界だったんでしょうが「神」=「イデア世界」だけ別格にしてしまったので、その後延々と
物質と精神の二元論は注目されます。
みんな、「神」のことで心がいっぱいだったんですね。
神とは安らぎであり、
神とは学問であり、
神とは真理の探求への最終回答であり、
神とは道徳、社会規範であり、
神とは法律であり、
神とは政治であり権力であり、
神とは名誉と名声であり、
神とは自己実現だったのです。
デカルトがいい加減に放置した神のことについては、デカルトの後継者のスピノザでガチ議論の対象になります。
物質と精神の二元論については、現代でも
心身問題として論じられます。
心身問題(しんしんもんだい、英語:Mind–body problem)とは哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての考察である。この問題はプラトンの「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能ではあるが、デカルトの『情念論』(1649年)にて、いわゆる心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなった。現在では心身問題は、認知科学・神経科学・理論物理学・コンピューターサイエンスといった科学的な知識を前提とした形で語られている。そうした科学的な立場からの議論は、哲学の一分科である心の哲学を中心に行われている。
心の哲学(こころのてつがく、英語: philosophy of mind)は、哲学の一分科で、心、心的出来事、心の働き、心の性質、意識、およびそれらと物理的なものとの関係を研究する学問である。心の哲学では様々なテーマが話し合われるが、最も基本的なテーマは心身問題、すなわち心と体の関係についての問題である。
心身問題とは、心と体の状態との間の関係[1] 、つまり一般的に非物質的であると考えられている心というものが、どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もいかに可能なのか、を説明しようとする問題である。
われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる[2]。あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。
こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである[3]。
「心身問題に対するアプローチは二元論と一元論に分けられる」と考える人もいる。
二元論は何らかの意味で体と心を別のものとして考える立場で、プラトン[4]アリストテレス[5][6][7] サーンキヤ学派やヨーガ学派などのヒンドゥー教の考えにも見られる[8]。二元論を最も明確に形式化のはルネ・デカルトである[3]。
デカルトは実体二元論(Substance dualism)の立場から、心は物質とは独立して存在する実体だと主張した。
こうした実体二元論と対比させられるのが性質二元論(Property dualism)である。性質二元論では、心的世界は脳から創発する現象であると考える。つまり心的世界自体は物理法則に還元することはできないが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない[9]。**
他方、一元論は、心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方である。西洋哲学の歴史においてこの考えを最初に提唱したのは紀元前5世紀の哲学者パルメニデスであり、この考えは17世紀の合理主義哲学者スピノザによっても支持された[10]。
デカルトの功績は、あくまで合理的手法をもって、プラトン哲学をつきぬけてプラトンがごっちゃにしていた「イデア界」から分離させる格好で、「精神世界」の存在を内外に知らしめたことです。
「物質世界」「精神世界」「イデア世界」の3つの世界というパーツを全部そろえた事にあります。
ただし、「神」は別格据え置きで、「物質世界」「精神世界」の二元論としてしまったことで、その後いくらやっても、この二元論の問題が解決できませんでした。はい、デカルトみたいな天才でも解決できない、ってことは間違っているからですね。
こうした問題をひきうけたのがスピノザでした。


量子コンピュータが超高速である原理と量子論とそれに至るまでの科学哲学史をゼロからわかりやすく解説02 に続きます。

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